July 2013アーカイブ

retweet

005paracosm washed out.jpg

 うだるような暑さをかき消す一陣の風。初来日は震災直後の2011年5月。「今だからこそ希望を届けたい」。彼は様々なインタビューでそう語っていた。時代の寵児ウォッシュト・アウトことアーネスト・グリーンは、伝統的なソウル・ミュージックヘ回帰しようとしている。一過性のネット・ムーヴメントではない、本来の意味で生活に息づく歌を作り始めようとしている。


 新作のタイトル『Paracosm』とはパラ・コスモ。つまり辺縁の宇宙、仮想宇宙といった意味になる心理学用語だ。子どもの頃の空想の万能感、例えば砂遊びでお城を作っては壊す過程で一国の盛衰がイメージのなかで起きている、長い歴史が幕を降ろすそんな感覚。タイトル・トラック「Paracosm」でアーネストは恋人と二人で作る理想の世界について歌っている。アルバム全体にわたって外部ミュージシャンの協力による様々なアコースティック楽器の導入、古いキーボードやサンプラーでヴィブラフォンやハープの澄んだ暖かい音色を再現、冒頭では鳥の声や自然音をサンプリング、それらによって彼が生み出した王国の厚みを増している。


 チルウェイヴとはニュー・ウェイヴなシンセ音にシューゲイザーの音像をかませた逃避的な音楽ジャンルとされる。逃避というイメージで私が真っ先に連想するのは、諸星大二郎『妖怪ハンター』の「生命の木」という作品だ。東北の山奥に住む隠れキリシタン達は、キリスト教のなかにあっても異教徒であり永遠に天国に行けない。しかし彼らを救うもう一人のキリストが現れ光の十字架と共にみんなを連れ出す。行き先は「ぱらいそ(ポルトガル語で楽園の意味)」。パラコズム=パライソ? 無論こじつけだ。しかし「Weightless」はまさにこの世界観に聴こえる。晴れ晴れしい顔でみんな上昇していく。


 YMOの細野晴臣は諸星大二郎の熱心な読者だという。YMOがテクノ・ミュージックからしだいに肉体性を帯びていったように、ウォッシュト・アウトもベッド・ルーム・ミュージックから自然のなかへ、デジタルからアナログ(生演奏)へと回帰していく。アーネストは偉大なソウル・シンガーの系譜に連なりたいのかもしれない。昨年はフリートウッド・マック・トリビュートにも参加した彼は、新作のレコーディングに際して60年代後半から70年代にかけての音楽を聴き込んだという。特に影響を受けたレコードはヴァン・モリソンの『Astral Weeks』。ビーチ・ボーイズの『Pet Sounds』にも感銘を受けたという。アーネストが現在住むジョージア州アセンズはR.E.M.の出身地だ。だからというわけではないが、R.E.M.がメンバー脱退を経て製作した『UP』『Reveal』といった後期の傑作群も私は個人的に連想した。そういえばこれらの作品も『Pet Sounds』に影響を受けている。R.E.M.が「今日は世界の終わり。みんなそんなこと知ってる。けれどいい気分」と歌ったフィーリングは無意識を通して彼に受け継がれてはいまいか?


 具体的な何かを指しているのではない。日本だけではない。今、世界中のいたるところで危機的状況は続いている。そんななかでまだ人々は権力を求め自己顕示欲を肥大させ、他者を攻撃し否定し傷つけ合っている。我々一人一人の心のなかで様々な物が奪われ、破壊され、汚染され続けている。「Great Escape」でアーネストはみんなで身を隠そうと穏やかに、しかしはっきりと宣言する。村上春樹の無意識を象徴するキャラクター、羊男のように。「震災直後だからこそ日本に行かなければならないと思った」と語る彼が奏でるからこそ説得力がある。


 もちろんアーネストは妻と共にアメリカの片田舎で平和に暮らしている。しかしある意味では彼と彼を包む世界の大切なものは破壊されてしまったのかもしれない。『Paracosm』はそれを復元しようとする試みであり圧倒的に前向きな逃避だ。



(森豊和)

retweet

Yusaku Harada『Souls』 のコピー.jpg

 それにしても本当に面白い時代になったものだ。デジタルかと思えばアナログ。レコードかと思えばカセットである。筆者が生まれた頃はすでにカセットは過去の産物であった。時を経て2013年。何が起きている?


 2000年代はネットレーベルの時代であった。資金が無くても無限に複製・入手可能なインターネットが、在庫という概念をぶっ壊した。それを経験した2010年代において、アナログ限定生産というオプションは無限コピーとはまったく対極に位置するチョイスだ。しかし現代において、デジタルコピーとフィジカル愛は必ずしも対立するテーマではない。むしろそれらはパズルのピースが合わさったように絶妙な相性を見せている。Yusaku Haradaのディスコグラフィーはその意味で非常に興味深い。《MiMi Records》からリリースされた『2011』は文字通り彼の2011年の初期作品をまとめたものだが、オウテカを筆頭とした《Warp》勢や青木孝允を擁する《PROGRESSIVE FOrM》、ニョルフェンをリリースした《分解系レコーズ》など、2000年代に栄えたグリッチ・エレクトロニカ~IDMの影響を受けていることがうかがえる。そしてこの時期の音楽性が彼の出発点となっている。


 2012年に《on sunday recordings》からリリースした『A』(特に3曲目の「Vertigo」)からつづく《ALTEMA Records》からリリースした『ALTEMA』にかけて、彼の音楽は徐々に"有機質"へと変化してゆく。人の声が多用され、幾何学への美意識からヒューマンタッチへと移り変わってゆく。そして今作は関西の《Day Tripper Records》から――それまで拡散していた音楽性を凝縮したかのように――カセット・テープでのリリースとなった。Seihoこと早川聖朋の関心が宇宙への憧憬を経てヴァーチャル・セックスへとフォーカスしたように、原田悠作の探究心もまた人間の魂="soul"へと向けられた。


 まず第一に、送られてきたカセットには愛が込められている。ひとつひとつ丁寧に手作りされた一点もののジャケットには、zipファイルにはない手で触れられる温もりがある。サウンドもどこか物質的な構造で、「Fake it」「Tape Tape Tape」では彼の初期作品を思い出させるアンビエントな電子音やグリッチーな音粒を充満させた空間に、ファンキーなベース、ソウルフルなボイスが鳴らされる。このあたりはフライング・ロータスと交流のあるハドソン・モホークが創設に携わったグラスゴーのレーベル、《Lucky Me》のようにチルウェイヴ情勢に目を配らせながらファンクやR&Bをビート・ミュージックに組み込んだ例を意識しているのかもしれない。


 そして、そうした音塊の群れが偶発的に飛び出してくる。ジャズでヴォーカルが即興でメロディーを変形させることを"フェイク"というが、まさにそういうことだろう。何度繰り返し聴いても次にどんな音が飛び掛かってくるのか予想できない。


 4曲目の「J.J.J」が格好いい。鋭利で棘のある音色選び、ヴォイスの俊敏な出し入れ、オーケストラやアコギも交えたダンス・ミュージックとしての意外な機能性、展開の多彩さ、カオティックな情報量に押しつぶされそうになった瞬間にさらっと音をシャットダウンするタイミング。力強いがマッチョイズムではなく、細過ぎもしない、アーバンなムードも備えている。Yusaku Haradaの音楽の魅力は、こういった多くの情報量に裏打ちされたカオスとそれをまとめあげる編集能力、そして他のアーティストにはない意外な展開であろう。


 日本国内のクラブ・ミュージック・シーンに漠然とした不安が漂いつつあったなかで、ネット・レーベルによる大型イベントや最近の関西の盛り上がりが国内エレクトロの未来に希望の光を照らしたことは言うまでもないが、《Day Tripper Records》はそうした趨勢で『Souls』のような文脈を持ち合わせた作品をリリースしたことが意義深い。


 筆者はここで「CDはダメだ」とか「データが一番だ」とか古くさい断言めいた言葉は言いたくないが、発売から一週間も経てば中古屋の棚に並んでしまうような量産型の商業音楽とは違った、何年も持ち主に愛されうる音楽を今のインディーズでは求めている人がいる。Yusaku Haradaはそんな人の願いを『Souls』に込めた。




(荻原梓)

retweet

カナタトクラス「遠景小唄集2」.jpeg

 音楽だけでなく、映画や文学なども含めたあらゆる文化には、政治やジャーナリズムでは掬いきれないマイノリティーな側面に対して寛容であってほしいと願っている。もちろん、何かを絶対的な価値観とし、それ実行に移し実現させる"強さ"も、ある部分、それこそ政治やジャーナリズムでは必要だと思う。しかし、その"強さ"は時に、その他の小さい萌芽を排することにも繋がる。だが、その小さい萌芽を大事に思う者も当然いるわけで、だからこそ音楽は、現在も発展を遂げながら、人々のあいだで受け継がれている。


 そうした音楽にも、わざわざ殺伐とした"アンチ"や"カウンター"を持ち込み、批判なき否定を蔓延させてしまうのはどうなんだろうと、ここ最近思うことが多くなった。少し陳腐な言い回しになってしまうが、人はそれぞれ性格も違えば、生まれ育った環境も違う。当たりまえと言えば当たりまえだが、そんな当たりまえなことを多くの人が忘れているように見える。何も、ひとつのナニカに集う、いわば全体主義的な枠組みにすべてを強引に当てはめる必要などないのではないか? そもそも、似た者同士だけで作られた"集団"や"繋がり"の馴れ合いに何の価値があるのだろうか? 似た者同士ではないからこそ、"繋がり"には価値があり、尊い。ここ数年のあいだでよく見かけるようになった、いわゆる"ポスト・シティー・ポップ"という音楽は、そういったことを我々に示している気がする。もっと言えば、"わかりあえないことをわかりあおう、そして、そこから始めよう"。こうした一見ネガティヴな諦念のように見えて、その実、前に進むための希望として求められているのが、"ポスト・シティー・ポップ"と呼ばれる音楽ではないか。


 カナタトクラスはキャッチーなメロディーを書けるし、日常に潜むドラマティックな場面や瞬間を切り取る歌詞も秀逸。そんなカナタトクラスの音楽を聴いていると、ほんの少し人生が色鮮やかになり、簡単な用事を済ますためだけの外出でさえ、目の前の景色が晴々とし、楽しい気分にさせられる。わかりやすいマッチョな強さがあるわけではないが、風が吹けば一瞬で消し飛んでしまいそうな感情の残滓を描くその姿は、十分な強度を持っている。そういった意味でカナタトクラスは、ポスト・シティー・ポップと呼ばれるに相応しい資質と音楽性を備え、何よりロマンがある。


 とはいえ、ポスト・シティー・ポップ云々について知らなくても楽しめるのが、本作の良いところ。特に1曲目の「風物詩」は、ザ・ラーズやブライアン・ウィルソン、スピッツなどに通じる要素が散りばめられたメロディーとアレンジが光り、その豊穣な音楽的背景を感じさせるサウンドは、聴き手を一瞬で虜にする。


 しかし、海外の音楽にかぶれるわけでもなく、かといって安易に流行を取り入れるわけでもない。あくまでカナタトクラスは、繊細な言葉で歌を紡ぎ、甘美なメロディーを鳴らし続ける。そうした姿勢が生み出すのは、紛れもなくカナタトクラスにしか鳴らせない音楽だ。先述したように、カナタトクラスは"ポスト・シティー・ポップ"と呼ばれるに相応しく、実際にそう言われることも多いと思うが、仮にそうしたタグがなかったとしても、カナタトクラスの音楽は誰かにとって大切なものになりえたはず。そんなカナタトクラスの音楽的ポテンシャルを、本作は明確に示してくれる。



(近藤真弥)

retweet

Betamaxx『Sophisticated Technology』.jpg

 80sリヴァイヴァルが起きている! と鼻息を荒くして語っても、大仰に驚く人はいないでしょう。これまでにも80sリヴァイヴァルは何度か起きているし、"何をいまさら"なんて具合に、80sというキーワードに食傷気味な方もいるかもしれない。


 しかし、それでも80年代の音楽に惹かれ、その影響を反映させた作品は今でも数多く生まれている。流行には目もくれず、ひたすら"好き"を追求するその姿、筆者の目にはとても面白く映ります。もちろん揶揄などではなく、素直に面白いと思えるのです。何より"好き"をモチベーションに生み出された音楽は、コンセプトや時代性を一枚一枚剥ぎ取られても、時の流れに耐えながら確実に残っていく。そして、その残った音楽をリアルタイムではない者が引き継ぎ、時には音を鳴らし、作品として残す。そうした繰り返しの末、本作『Sophisticated Technology』のようなアルバムが生まれたのは、とてもロマンティックであり、文化の面白さを示していると思います。


 かつてソニーが販売していた家庭用ヴィデオ・テープ・レコーダーの名前を掲げるベータマックスは(こちらは"X"がひとつ多いけど)、アメリカはピッツバーグ出身のアーティスト。そんなベータマックスが鳴らすサウンドなんですが、モロに80年代エレ・ポップ、それも『Speak & Spell』期のデペッシュ・モードに通じるシンセ・サウンドを基調としている。そこにイタロ・ディスコのいなたい近未来的サウンドスケープとベース・ライン、さらにはオールド・スクール・エレクトロやハウス・ビートも顔を覗かせる。ひとつの要素で満足しない折衷的感性は、やはり2013年の作品であるということか。


 もうひとつ興味深いのは、バンドキャンプでダウンロードできる本作のタグに、昨今盛り上がりを見せる"シンセ・ウェイヴ"の名があること。多くの者はシンセ・ウェイヴと聞けばおそらく、《Minimal Wave》やそのサブ・レーベル《Cititrax》がリイシューしている、80年代ニュー・ウェイヴのエクスペリメンタルな作品群を思い浮かべるのだろう。まあ、本作の1曲目「Breakthrough」は、そのリイシュー群に通じるドローンの要素を見いだせなくもない。しかし、基本的にダンサブルなシンセ・サウンドを終始鳴らす本作は、やはりエレ・ポップと言ったほうが、少なくとも便宜的な面では妥当でしょう。


 ただ、本作のサウンドがシンセ・ウェイヴ・ブームを通過したうえで生まれたものならば、それはそれで興味深い。チープさを逆手に取った秀逸なジャケット・デザインは、80年代ディスコのレコード・ジャケットでよく見られる色使いを想起させながらも、どこか宇宙を見つめているピュアな開放感に覆われたサウンドを聴いてしまうと、サイボトロン「Enter」やモデル500「Classics」のジャケット・デザイン、いわゆるデトロイト・テクノの系譜も見えてくる。もしくは、ドリーミーなカーテンを纏っていたチルウェイヴの残滓が、80sの皮をかぶって新たな白昼夢を紡ぎだしたのか・・・。いろいろ想像が尽きない。



(近藤真弥)



【編集部注】『Sophisticated Technology』は《Telefuture》のバンドキャンプでダウンロードできます。

retweet

004sayoko-daisy.jpg

 アナログ・レコードが再評価されているのと同じだ。新しいことについて書こうとして最も古いことに行き着いた。奈良出身、三重在住のベッド・ルーム・アーティストSayoko-daisyの話である。彼女はサウンドクラウドで素晴らしい曲を多数発表している。しかし新作を上辞するチルウェイヴの雄ウォッシュト・アウトのように、インターネットでいきなり爆発的に注目されたわけではない。リアルな現場で、様々な地域のたくさんの人々が偶然交差し情報が行き交った結果、今この作品がある。その核となるのは彼女の歌声と表現したい衝動。それがなければ広がらない。


 本作「Need Them But Fear Them」は、インスト含む5曲入りEP。セルフ・タイトルの前作が細野晴臣に影響された歌謡テクノ・ポップ集だったのに対して、本作は一転、ダークな打ち込みビートで、豊潤なメロディーをあえて解体、断絶している。クラブ・ミュージック、ジャズ、クラシック、はたまたハード・ロック、様々な要素が顔を出す。一方でウィスパー・ヴォイスに感情は徹底的に抑制される。ためにためてラストのタイトルトラックでついに闇を切り裂くメロディーが発動する。しかしその題名は「私は他者を必要とする。しかし同時に他者を恐怖する」。通して聴くことで見えてくるのは『風の谷のナウシカ』の荒涼とした世界。しかしこの世界で我々は生き続けなければいけない。


 彼女は幼少期より音楽に親しみ作曲もしていたという。何が理由かは分からない。10年間音楽から遠ざかり過ごした時期を経て2012年から急にまた憑かれたように作曲を開始。同時期に奈良のレコード・ショップ・ジャンゴでアナログ・レコードを漁り出す。ジャンゴ店長が偶然彼女の音源をネットで聴きCDリリースを勧めた。回りまわって音楽ライターの松永良平の目に留まりCDジャーナルで取り上げられ話題になる。京都のベテラン・ミュージシャン、バンヒロシに招かれライブをしたり、下北沢モナレコーズ店長行達也とのユニットLaylaで共作曲を無料配信したり、名古屋のガールズ・バンドCRUNCHとのはっぴいえんどカバーEPでは『風街ろまん』収録「暗闇坂むささび変化」を歌い、原曲のマンドリンの音色をキーボードで再現している(このコラボレーションは彼女らが『Heavenly Music』ツアーで実際に同曲の演奏を聴き、細野晴臣と会話したことに触発されているよう)。なお今後の作品では逆に生ギターをサンプリングするアイデアもあるという。奇しくもウォッシュト・アウトと同じ道を歩んでいる。


 前作の収録曲半月の街で、彼女は自らを古い顧みられることのない人形に例えていた。自分と周囲の友達のためだけに作っていた、そんな彼女の音楽はリアル/ネット双方で様々な人々を通して広がりつつある。人と直接会い話をすること、お互いを理解しようとして時に笑い合うこと。その積み重ね。原始的な方法かもしれない。でも最も強力なのだ。風景構成法の発案者であり文筆家、精神科医の中井久夫はこんなことをよく書いている。


「僕のことをあいさつで患者を治していると馬鹿にする人もいるけど、当たり前のあいさつや握手が一番大切なんです。相手を人間として認めているということですから」


 いくらネットが発達しても人と人との出会いは重要だ。実際に出会えなくとも、芸術を生み出し伝えていくためには真の感情の交流は必須だろう。



(森豊和)



【編集部注】本作は下北沢モナレコーズ奈良レコード・ショップ・ジャンゴで購入できます。また、Sayoko-daisyさん個人でも通販で販売しています。



retweet

デデマウス―.jpg

 ニュートンはかつて太陽系の模型を作ったが、中央に金メッキの太陽を配置し、周辺の惑星は各位置に所在し、レバー操作で、各惑星が軌道に沿ってゆっくりと動き出すというものだった。それを見た英国の天文学者のハレーは、その模型の精巧性に唸ったものの、模型を越え、複雑にして精巧さを保つ本当の太陽系、宇宙とはやはり人間の叡智を駆使しても届かないものだとも気付いたという。


 思えば、プラネタリウムというものも当初はルネッサンスを経て、18世紀を跨ぎ、部屋の天上にレールを敷き、中心に太陽を置き、その周囲を惑星が多くの歯車で正確にまわる運動儀が開発されることで原型を為し、"プラネタリウム(planetarium)"という造語が付されるまで長い時間を擁した。"planet(プラネット)=惑星"と"~orium(~オリウム)=場所"の合わせ言葉。そこから、惑星以外の星も表現し、今現在のプラネタリウムへは更に変節と改良が加えられてゆく。


 本来の宇宙そのものの宏大さと、疑似的な宇宙を希求する人間の欲求の差異。自然と人為の鬩ぎは、想像力を強化させることもあるとしたならば、プラネタリウムという場所で得る感覚はトレースされた果てない宇宙への好奇心なのかもしれない。


 さて、おそらく、このEPのジャケットからまず、これまでのデデマウスが孕むノスタルジアと同時にヴィヴィッドなひろがりを期待する人は多いかもしれない。「faraway girl」からおよそ1年、今後は定例になるかもしれない、プラネタリウム・ライヴに向けた、会場限定EPとしての第2弾「to milkyway planet」。


 今年を振り返ってみても、昨年の自主レーベル《not》から通算4枚目となるアルバム『sky was dark』も引き続き高い評価と注目を受け、初プロデュース作たるThe Selection of DE DE MOUSE Favorites performed by 六弦倶楽部 with Farah a.k.a. RF『Vol.1』と加速を重ねるなか、サンリオピューロランドにおける「キキとララの星空の旅」の劇盤プロデュースも行なった。その間隙を縫い、膨大な量の各地でのイヴェントやライヴ活動にも暮れ、こうした音を紡ぎ、届けるというのはもはやワーカホリックといった域よりも、デデマウスという存在が常に前を向きながらも、自己刷新を常に試みているようなマッドな熱量を感じる。


 「天の川へ」というタイトル、提灯、燈籠、煌びやかな夏の空気感をおさめたジャケットと6曲のバランスは統一感と多彩性を持ち、構成的にもEPながら物語性も汲まれている。


 例のカットアップ・ヴォイスと眩い電子音が有機的にいびつに絡み合い、少しずつ宇宙の淵へと運んでゆくような壮大な「milkyway planet」から、彼自身の内省性がほのかに浮き出る「nobody's place」におけるミニマルにシェイプされた音像に至るまで鮮やかに、これまでの自身の像を残映させ、更新してゆく。


 彼が作り上げるスタジオ・ワークと、ライヴでの乖離をして、スタジオ・ワークが端整だという訳ではなく、スタジオ作の方が導路がはっきりしていると言おうか、ライヴでは整合美よりも無軌道でラフなインプロヴィゼーションに魅力が発現するときがあるゆえに、こうして纏まったコンセプチュアルな内容で魅せる際の彼の集中力と構成力は美しい。マウス・オン・マーズや、デッドマウス、オヴァル辺りがふと忍ばせる人懐っこさを思わせる3曲目の「old friend's song」はタイトルそのままに、簡素ながらも音の重なりや掛け声のようなエフェクト・ヴォイスが行間を盛り立て、オリエンタルな雰囲気を醸す。"旧友のための唄"。直訳すればそうなるが、昨年の「faraway girl」EPに比すると、彼岸感よりも受け手が各々に近接にかつ密に平衡的な感覚に寄り添うビートと曲展開が目立つように思える。ただ、近接に各々の感覚に寄り添うと言っても、空、その先の宇宙を見上げたときに皆が感じる"それ"に近いと言おうか、花火大会でもいいが、同じものを違う人たちが違う場所で視るというマジカルな瞬間は、その実、貴重なもので、音楽を共有する、共に聴くという行為もそういうことであり、プラネタリウムという装置で彼の音楽がシェアされる場所における帰一性というのも掛け替えのないものなのだと思う。


 だからこそ、スペーシーで少し無愛想で不規則な変拍子が刻まれる7分を越える4曲目の「farther shore」で、冒頭からの流れは、静かに不穏かつ神経症的なものに移ろう。空がそのまま星を映さないように、夜がずっと暗闇を描かないように、咲く花火が儚く散るように。《Warp》レーベルの諸アーティスト、オウテカやスクエアプッシャーなどから受けた志が活きた、エレクトロニカ的要素が強く、途程でドラムンベース的に持ち崩れたりする曲内で、脈拍をはかり直すように、ズレた心地で聴き手の感性を散逸させる。冒頭から陶然と浸れないでもない音世界はしかし、不穏なままではなく、やわらかく、そのまま収斂、昇華するように、後半の2曲へとつながってゆく展開は流石といえる。「milkyway planet」から「to milkyway planet」の"to"までの距離。


 誰もがデデマウスに求めるだろう稚気や蛮性、ロマンティシズムや彼岸性も包含し、この「to milkyway planet」では、衒いのない彼の精神性とトリップさせられる音の快楽がより増している。確実に研ぎ澄まされてゆく音風景が"milkyway planet"と称されるのかもしれず、ならば、いつかは彼岸の少女へ想いを馳せ、郊外の空の暗さのなかの光を想っていたアーティストは今、空を見上げて、その向こう側の限りない可能性と煌めきを信じようとしている、そんな気もする。8月、9月と各地を巡るプラネタリウム・ツアーとこのEPは並走しながら、あまり夜空を見上げることも、星を数えることもなくなった人たちもやわらかく包み込むことだろうと思う。


 プラネタリウムや現実の空で感じる星とは、過去の光を今に届けている。その過去にあっただろう光の眩しさを、優しく果敢無くデデマウスは音に変える。



(松浦達)



【編集部注】「to milkyway planet」は、8月16日からはじまる《to milkyway planet tour》より発売開始になるライヴ会場限定発売です。



retweet

DESAPARECIODS.jpg

 再結成したデサパレシドスの3rdシングル「Te Amo Camila Vallejo / The Underground Man」がリリースされた! デサパレシドスは、ブライト・アイズのコナー・オバーストが中心になって2001年に結成されたポスト・ハードコア・バンド。初期のブライト・アイズにあったコナーの震えるような叫びとハスカー・デュやリプレイスメンツのようなアメリカン・ハードコア/ガレージ・パンクが渾然一体になったエモいサウンドが最高にカッコ良かった。2002年には、《Saddle Creek》から1stアルバム『Read Music / Speak Spanish』をリリースしている。


 ちなみに、バンド名である「Desaparecidos」を(アルバム・タイトルに従って)スペイン語の自動翻訳機にぶち込むと...「missing person; classification for soldiers did not return from the battlefield and their status is unknown」って出てくる。「Desaparecidos=The Disappeared:戦闘中の行方不明者」という意味。バンドのスタンスが伝わってくる。彼らは1stアルバムのリリース後、小規模なツアーに出たけれども、その年にあっさりと解散。コナー・オバーストはブライト・アイズへ、メンバーもそれぞれのバンド活動へと戻っていった。


 解散前のデサパレシドスの活動期は、コナー・オバーストがブライト・アイズとして『Fevers And Mirrors』(2000年)と『Lifted Or The Story Is In The Soil, Keep Your Ear To The Ground 』(2002年)をリリースしていた中間にあたる。宅録から始まったブライト・アイズが、アメリカン・フォーク・ミュージックを2000年代の声にアップデートして、『Lifted』とそれに続く『I'm Wide Awake, It's Morning』(2005年)でボブ・ディランやブルース・スプリングスティーンと並び称されるようになるちょっと前。その頃、アメリカはブッシュ政権の真っ只中だった。ブライト・アイズは、2004年にケリー候補とブッシュがぶつかるアメリカ大統領選挙への投票を呼びかける"Vote For Change"ツアーにも参加。R.E.M.やボス、パール・ジャムらと一緒にステージに上がっている。そして、シングル「Lua」と「Take It Easy(Love Nothing)」がナショナル・チャートのトップを飾り、ブライト・アイズの名は揺らぎないものとなる。...けれども、その大統領選ではブッシュが勝利したことはご存知のとおり。オバマの登場までには、それから4年を要することになった。


 その後もコナー・オバーストは、2枚のソロ名義のアルバム・リリースやブライト・アイズとしての活動を精力的に継続。ブライト・アイズは、2011年の8thアルバム『The People's Key』で休止したみたいだけれども...、翌年には正式にデサパレシドスの再結成がアナウンスされ、Webサイトも新たに立ち上げられた。そして、2012年8月に約10年ぶりとなる復活シングル「MariKKKopa / Backsell」をリリース。「MariKKKopa」は、アリゾナ州「Maricopa(マリコパ郡)」のスペルをKKKに置き換えて、ヒスパニック系の移民問題(アリゾナ州では新移民法が成立)を取り上げながら、人種差別を糾弾するパンク・ソング。そう、デサパレシドスは以前にも増して明確な意思を持つ「パンク・バンド」として甦った。


 そして、この3rdシングルのタイトル「Te Amo Camila Vallejo」は、「カミーラ・バジェーホが好き!」という意味。カミーラは、2011年に勃発したチリ学生運動のリーダーだった女性。政治活動には不釣り合いなほどの美人で、多くのメディアを賑わせている人物とのこと(ジャケ写に注目!)。ひとつひとつの言葉やアメリカと南米の政治情勢などは、日本に住んでいる僕たちには伝わりにくいことかもしれない。けれども、ブライト・アイズの(現時点での)ラスト・アルバムを『The People's Key』=「民衆のキー(音調)」と名付けて、音楽の力による調和を歌ったコナー・オバーストが2013年の今、こんなにも怒り狂っている。チープでやたら騒々しいシンセと焦燥感に満ちたギター・リフ。何かに急かされるようなサウンドなのに、アンセミックにすら聞こえる。コーラスの一節が、痛切に響く。


《Oh Camila / You Put A Fire In My Heart / I Don't Know What's Going To Happen / But I Want To Do My Part》


「きみは僕の心に炎を灯してくれた。何が起こるかわからないけれど、僕は僕のやるべきことをやろうと思う」ー 何かのきっかけとなる行動があり、それを歌うパンク・ソングがある。怒るべきこと、声を上げること。そして、やるべきこと。今の日本はどうだろう?



(犬飼一郎)


【編集部注】デサパレシドスのHPから購入できます。


retweet

魔法をかけてやるジャケット.jpg

『対音楽』を巡るプロジェクトと言おうか、昨年の中村一義を巡る状況は目まぐるしく、基本、マイペースを貫く彼が一気呵成に動き出した感があった。簡単に遡行するに、まず、シングル「運命/ウソを暴け!」でのベートーベンの大胆な援用の下、相変わらず作り込まれたサウンド・デザイン、簡潔な言葉に複層的な意味が汲み取れる歌詩、あくまでポップを敬愛する彼らしい人懐っこいメロディーと10年振りのソロ名義という大仰な冠詞を抜きに、15年目のキャリアを重ねたリ・スタートとこれまでが混じり合う感覚があった。そして、『対音楽』というアルバムに内包された要素には、2011311日以降の世に向けた彼のステイトメントのようで、壮絶さと美しさが入り混じり、ベートーベンの誰もが知るだろう有名な旋律も昇華されていた。但し、作品としては素晴らしかったにしても、多くの人に届いた、拓かれたとは言い難い部分は多少なりとも付随していたのは否めない。


「君にとって音楽はどういう存在でしたか?


 という問いかけを、何よりも音楽の力を大切にしていた中村一義自身がここでするということ。つまり、その時点で音楽は存在し得ず、存在が音楽していた気配が前景し過ぎていたのかもしれないという捻じれ。例えば、アドルノの文化と野蛮(自然)の関係をあの日以降、考えた人もいるかもしれない。あの日以降、詩を書くことは野蛮だ、とも。天変地異含め、多くの事柄が押し寄せるなか、「自然」は「文化」と連関の糸目が解けそうになったところもあると思う。「文化」は自然過程への内在から脱出し、これから距離を保持し、そしてそれは、否定的に言えば、自然から疎遠になることであり、哲学的には「疎外」と称す。中村一義は『対音楽』において、徹底的に音楽と、自身と向き合い、それを示すように、あくまでボーナス・トラックとして、最後にベートーベンのピアノソナタ第八番「悲愴」に沿い、ライヴ・テイクとしてピアノと声だけの「僕らにできて、したいこと」を紡いだ。とても、「個」的な繊細な痛みが滲む曲だった。


《ただ、救われた私が誰かを想う。》

(「僕らにできて、したいこと」)


 筆者もそうだが、偶然にも生き延びた、救われたという日々が胸を時おり詰まらせていた。なおこの曲は、2011623日に録音されており、まだまだ、何もかも整理しきれない時期だったと思う。ゆえに、『対音楽』での中村一義は、内部の想いの錯転が外部に通じる風を探すように、あなたの向こう側の誰かを想おうとする生成プロセスを踏んだともいえる。文化的な意味での「疎外」に映った錯覚を持った人もいるかもしれないということだ。「自然」に安心を持っていた人たちは、連関とともに、「文化」の在り方を再考するための時間は苛酷な振り返りもあっただろうし、ルフェーブル的な古ロマン主義として文化産物を捉えた人もいたのではないだろうか。だからこそともいえないこともなく、彼はこの作品のリリース後、Base Ball Bear、サニーデイ・サービスと組み、ライヴ・ツアーを行ないながらも、『対音楽』を軸にするというより、ソロ、100s時代の新旧の曲が入り混じり、フラットでもっと軽やかなものになっていた。そんな、集大成たる12月の武道館公演では、Base Ball Bear、サニーデイ・サービス、くるりから岸田繁と佐藤征史、100sというゲスト、膨大な機材をステージに並べ、ようやく今日の地続きの「明日」を歌った。


 その「明日」から始まっているのが、この新曲「魔法をかけてやる!!」になる気がする。100sの町田昌弘と二人で、全国のライヴ・ハウスをトークや弾き語りセッションで巡るなごやかな《まちなかオンリー!》のために書き下ろされたというが、そのツアー・コンセプトや内容のラフさや、今年になってからの活動は普段着のような佇まいで音楽に対峙しており、深刻にならざるを得ない瀬で、逆説的に音楽が日常、明日に溶け込んでゆくような感覚も受ける。


 過去には、ラヴィン・スプーンフルのエヴァーグリーンな佳曲へのオマージュ的な「魔法を信じ続けるかい?」をファースト・アルバムたる『金字塔』で示し、その後、100sとしての今のところの区切り的な『世界のフラワーロード』で、「魔法を信じ続けているかい?」と要目に"魔法"という言葉を彼は用いてきた。ただ、それは前述の「君にとって音楽はどういう存在でしたか?」との問いかけと近似的な魔法の効力を聴き手に投げかけるものでもあったが、今回は主体的に「魔法をかけてやる!!」に変わり、今、ウォームな空気を運ぶのは感動的にも思える。


 あくまで、現在においては弾き語りリハーサル・ヴァージョンとはいえど、骨格はしっかり見える。小気味よいメロディーに映るのは、このツアーに基づいたまちのことや"234"という軽やかな掛け声。魔法をかけにきた「私」、旅のモティーフ、ブレス的に置かれた"ラララ"の箇所まで少し肩の力が抜けながらも、脱力ではない、空気感を味わえる曲になっている。これがまた、しっかりした形で中村一義の新しい曲のなかに並ぶことを想うと、『対音楽』からの歳月の長さ、深みをふと回顧する。あなた、涙、魔法、シンガロング部分、そして旅。この「魔法をかけてやる!!」からはとても近い彼の声が聴こえる。


《誰かが泣いてたなら、魔法をかけてやる。明日も旅に出る。》

(「魔法をかけてやる!!」)


 再び、彼は今日の地続きの明日を歌うようになった。それが何より嬉しい。



(松浦達)



【編集部注】トーク&弾き語りライヴ《まちなかオンリー!》ツアー来場者への限定配信

2013年7月30日

|

retweet

2013年7月30日更新分レヴューです。

CHARLIE BOYER AND THE VOYEURS『Clarietta』
2013年7月30日 更新
SOFT METALS『Lenses』
2013年7月30日 更新
CHOO CHOO PANINI『Moon Ray』
2013年7月30日 更新
THE WATERMARK HIGH「Murmurs EP」
2013年7月30日 更新

2013年7月24日

|

retweet

2013年7月24日更新分レヴューです。

ミツメ「うつろ」
2013年7月24日 更新
OBLIVIANS『Desperation』
2013年7月24日 更新
KOLSCH『1977』
2013年7月24日 更新
THE JAPANESE POPSTARS『Disconnect / Reconnect』
2013年7月24日 更新

retweet

久々にザ・キンク・コントラヴァーシーの更新でございます。本当はもっと頻繁に更新したかったのですが、諸事情が重なりまして、ほぼ休止状態になっていました。申し訳ございません・・・。しかし、現在は投稿の受けつけを再開しましたので、ぜひ送っていただければと思います。詳しくはこちらのニュース記事をご覧ください。


さて、今回掲載するのは、森豊和さんの原稿です。今年4月におこなわれたパブリック・イメージ・リミテッドの来日公演について、勢いのある言葉で語ってくれました。かつてジョン・ライドンは、セックス・ピストルズのジョニー・ロットンとして《No Future》(「God Save The Queen」)と叫び、PiLのアルバム『That What Is Not』に収められた「Acid Drops」では、そんな自分の過去を諧謔的に皮肉るような行為に及んでいます(ピストルズの代表曲「God Save The Queen」をサンプリングしている)。


こうしたことをふまえて森さんの文章を読むと、より面白い観点を見つけられるかも。もちろん文章自体も興味深いものですが。「時代が否定に覆われ尽くす前にYESを復権させなければいけない」という一節には、グッときました。



(近藤真弥)

retweet

怒髪天.jpg

 頼れる父親がいるから子どもは何度でも安心して転べる。失敗しても立ち向かうことができる。両親も近所のおばさんも頑固な髭のおやじも、町ぐるみで子ども達を抱える環境があればなお素敵だ。


 同じ内容を精神分析の世界では難しい専門用語やロジックを駆使して長々と説明する。それも必要だ。しかしこの曲はわずか4分で明快に伝えきってしまう。怒髪天feat.キヨサクによるNHK総合アニメ『団地ともお』主題歌のことだ。


 「団地でDAN!RAN!」は西城秀樹「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を思わせる、運動会の行進曲のような勇ましい4つ打ちダンス・ビート。一度聴いたら頭から離れないサビのフレーズに恥ずかしげもなく弾きまくるギター・ソロ。アニメ・ソングとは本来こうあるべきで、誰でも口ずさめる親しみやすさと大衆性は怒髪天の最大の武器だろう。しかもMONGOL800のキヨサクが参加し交互にボーカルをとっている。フジロックやライジングサンといった数万人規模のフェスに出演し武道館公演を来年に控える怒髪天と、言わずと知れた国民的ロック・バンドMONGOL800のヴォーカリストの共演。それが原作漫画に合わせて作ったアニメ・ソングだというから痛快だ。


 怒髪天は稀な経歴を持つロック・バンドである。1984年札幌で結成。1991年メジャー・デビューするも1996年活動休止。1999年活動再開。2004年再メジャー・デビュー。結成4半世紀を経た今になって最も注目されている。紆余曲折あるその生き様は、しかし『団地ともお』の世界観とリンクする。増子直純の人間性、遍歴はまるで原作者小田扉の作品に出てくる主人公のようでもある。


 漫画の世界ではあるまいし、メジャー落ちしたロック・バンドが急にこの世界から消えてしまうわけではない。生きていくためには時に日雇い労働でもやってしのがなくてはならない。生活は続いていく。


 苦汁をなめた日々に培われた経験が、子ども達のためのアニメ・ソングという場で惜しげもなく発揮されている。かっこわるくてもぶざまでもちゃんととるべき責任をとる大人が今の日本にどれだけいるのか? 増子直純はそう問いかけているようだ。


 児童精神科医である佐々木正美の著作『子どもへのまなざし』を最近読んでいる。医学書ではない。初めて子育てをする人に勧めたい読みやすく面白い本だ。


 この厳しい世界で生きていくためにはエリクソンがいう「基本的信頼」が必要だという。乳幼児期に大人がどれだけかまってくれたかで世界に対する安心感が決まる。ミルクを与えられず放って置かれるのはもちろん、おもちゃをたくさん与えられて親が別事をしているのも形を変えた虐待だ。良くも悪くも大人が真剣に向かい合い相手をすることで基本的信頼が根付く。しっかり甘えることができる体験は世界への信頼につながる。すると成長して自立できるのだ。


 薬物依存症になる人々の一部にこの基本的信頼を持たない人達がいるという。ダルク女性ハウス代表でありエレファントカシマシの熱狂的ファンでもある上岡陽江は、それを「応援団を持たない人々」と表現する。子どもの頃に適切な距離で変わらず接してくれる大人達がいなかったから対人関係が下手なまま成長し、その苦しみへの自己治療として薬物に手を出すという構図。


 ロック・ミュージックも含むアート全般が時に基本的信頼を確立するためのもがきだったとしたら? 長きに渡り薬物依存に苦しんだビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンは父親との間に深刻な確執が存在したという。


 パオロ・ヒューイット著『クリエイション・レコーズ物語』はアラン・マッギーのこんな言葉で締めくくられていた。「母さん、ぼくはもう大丈夫だよ」。


 ボスニア戦災孤児救済のチャリティー・アルバム『HELP』に参加した際にオアシスのノエル・ギャラガーはこう語っていた。「大人どもはどうでもいい。けれど孤児になる子ども達のことを思うとホロリとくるよ。俺達もみんな子どもだったんだから」。


 もしもロックンロールが世界から見捨てられた孤児に向けた音楽だとしたら、「団地でDAN!RAN!」はまさしく最高の強度を持ったロックンロールであり同時にみんなのうた(アンセム)だ。


(森豊和)

retweet

K. Locke『The Abstract View』.jpg

 トラックスマン 『Da Mind Of Traxman』RPブー『Legacy』など、ジューク・シーンにおける要注目アーティストのアルバムはひとまず出揃った、と思っていたのだけど、このことをまず、『The Abstract View』という必聴レベルのアルバムを届けてくれたK・ロックに謝らなければいけません。申し訳ない。


 K・ロックは、トラックスマンも所属する《TEKKDJZ》のクルーであり、数多くいる若手のなかでも最注目のアーティストとして、ジューク・ファンのあいだで抜群の人気を誇っている。なぜか日本のポップ・ソングをサンプリングした曲も作っていて、きゃりーぱみゅぱみゅの「PON PON PON」をネタにした「Wierd Connection」(※1)は、ネットを中心にかなり話題となった。


 しかし、K・ロックがネタありきのトラックを生み出しているのかといえばそうではなく、フットワーカーを踊らせるのはもちろんのこと、ホーム・リスニングに適したメロウな側面もあるトラック群は、ジューク入門にうってつけな親しみやすさがある。ジュークと聞くと、変則的なリズム・パターンを持ち、特に4つ打ちに馴れた者からするといまだに敬遠されがちな音楽だが、ソウルフルかつディープな本作は、そうした者たちも引き込めるキャッチーさが際立っている。この側面はK・ロックが持つ最大の武器であり、トラックスマンやRPブーといった、日本でも高い認知度を誇るトラックメイカーとの明確な違いである。


 また、本作を聴いていて興味深いのは、ジュークでありながらも、ヒップホップの要素が随所で顔を覗かせる点だ。例えばトラックスマンは、「毎日のように(J・)ディラのアルバムのサンプリングネタと抜き方、そしてフリップやチョップの方法をマネしまくった」(※2)と語るほどにヒップホップの影響を受け、それはトラックにも反映されているが、K・ロックの場合、その影響がより色濃く出ている。さらに「Want A Be」は、サンプリング・ヴォイスをヴォーカリストによる歌に変えても、ひとつの良質なポップ・ソングとして成立する構成になっており、今後K・ロックが歌モノを作っても不思議ではないと思わせ、いわばポップ・ソングとしての側面を覗かせる。K・ロックはクリス・マッコイという名義でヒップホップを作っているが、このことも本作におけるヒップホップ的要素や歌モノ要素と関係しているかもしれない。全曲にラッパーとヴォーカリストをフィーチャーしたK・ロックのアルバム、というのもぜひ聴いてみたい。



(近藤真弥)




※1 : 現在はK・ロックのサウンドクラウドから削除されていますが、《Radio-Alternator》のサイトにアップされているミックスで聴くことができます。


※2 : ミュージック・マガジン2012年7月号掲載 トラックスマンのインタヴューより引用。

retweet

PARTTIME PDA.jpg

 サンフランシスコ出身のデヴィッド・スペックによるソロ・プロジェクト、パート・タイムは、ニュー・ウェイヴ直系の感性からか、よくアリエル・ピンクと比較される。一見妥当なようで、ある意味それは筋違いではないだろうか。


 しゃがれた脆い、しかし色気あるヴォーカルとメロディー・センスは確かに似ている。しかしシングル「Night Drive」を聴いて、私が真っ先に連想したのはワム!の「Last Christmas」だった。自分の真摯な思いを反故にして無残に捨て去った恋人へのあてつけ。夏と冬の違いはあれ同じフィーリング。


 アリエルが様々な過去への憧憬を歌いながらも、現在の自分自身のエゴを巨大化させ、全世界へ放射していくのに対して、デヴィッドはひたすら過去の恋愛に固着し、あるワン・シーンを反復し、ついには純化させていく。狂おしい情念はパッション・ピットのそれに近いかもしれない。


 今作もウォッシュト・アウト、ベスト・コーストウィークエンドらのデビュー作を送り出した《Mexican Summer》より、11年の1st『What Would You Say?』に続いてのリリース。《Burger》からのカセット『Saturday Night』、日本の《Sixteen Tambourines》から7インチ・カットされた「Night Drive」といった変則的なリリースを挟んで。


 最近こういったファン泣かせのフィジカル・リリースが実に多い。そうでないと海外ではもう買ってもらえないからか。そういえばレコード・ストア・デイの姉妹編でカセット・ストア・デイというのも行われるようだし。


 現在こちらで公式ストリーミングされているが、30代の人は幼い頃ラジオで流れていた80'sポップスの面影を見出すかもしれない。記憶の奥底に焼きついているまさにそこを刺激する。でも40代以上にはお子様向けと揶揄され、20代以下には単なるリバイバルと一蹴されるかもしれない。前作に比べギター・ポップ風味が増したとはいえ、一聴お手軽なエレ・ポップに聴こえる。はたしてどうだろうか。


 歌詞もメロディーも「僕はピエロだから一人ぼっち」というムードを一貫して表現している。風変わりな行動ゆえに疎外されていく状況。恋人は遠く離れていく。先述したワム!のジョージ・マイケルが後年レコード会社に対し訴訟を起こし、様々なトラブルを抱えていく様とオーヴァー・ラップする。


 先ごろ出版された村上春樹の新作『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』で、ワム!はヒロインの語る「ぱっとしない10代の日々」の象徴として使われている。だいたい以下のように。


「学校というシステムになじめず、私は全然目立たない存在で、ワム!のCDは全部持っていた。ボーイ・フレンドなんて影も形もない。でも心を打ち明けられる親友が2人くらいいた。だからその時代を乗り越えられたのかもしれない」


 パート・タイムはまさにピンポイントにある世代のノスタルジーを想起する音楽だ。一見、80's黄金期の華やかなりし日々を忠実に再現しているようで、「この美しい世界は今はない(もう去ってしまった)」という事実をあらかじめ内包する。デヴィッドは損なわれた何かを強迫的に再現し続けている。



(森豊和)


retweet

carpool_7_jacket_image のコピー.jpg

 瑞々しい爽快感と溢れでる初期衝動が詰まっている。東京は高田馬場を拠点とする6人組バンドcarpool(カープール)の音楽を一言で表せば、そんなところだろうか。本作は彼ら彼女らにとって初の全国流通盤なのだが、まず、その"速さ"に驚かされる。本作に収められたすべての曲が2分台であり、軽快な曲展開もまるで一瞬の出来事のように過ぎ去っていく。鉄琴やキーボードが混じることで、ほんの少しトイ・ポップ的な可愛らしさを覗かせる瞬間もありながら、キャッチーなメロディーに寄り添うギター・サウンドが耳に残る曲の構成は、聴いていて清々しくカッコいい。


 また、ロマンが迸る歌詞にも惹きつけられる。全3曲とも、端から見れば青臭いように思える言葉選びが目立つかもしれないが、そうしたつまらない視線などにかまう必要はない。音楽が持つ魅力のひとつとして、いままで見たことがないよう景色を見せてくれる、いわばスタイルや日常を飛び越えてしまうような圧倒的想像力が挙げられる。それはジャンルを問わずに当てはまるものであり、だからこそ筆者は、音楽には常に夢があってほしいと願っているのだが、おそらくcarpoolも、音楽に夢を見ているのではないかと、本作を聴くと思ってしまう。


 そうした夢見がちな姿は、現在においてナイーヴに映ってしまうのだろうか? いやいや、夢見ることが難しくなりつつある時代に本作のような音楽を鳴らせるからこそ、carpoolのサウンドには強度が宿っている。楽しいことは決して楽ではない。それでもcarpoolは音楽を楽しむかのように、颯爽と歌を紡いでみせる。音楽のポジティヴな可能性を信じている者は気に入るはずだ。



(近藤真弥)

retweet

Ikonika『Aerotropolis』.jpg

 コード9のバックアップもあり、デビュー当初から大きな注目を集めてきたアイコニカ。おそらく、彼女のことをベース・ミュージック・シーンのアーティストと見ている者も多くいるだろう。まあ、それは間違いではないし、実際彼女のディスコグラフィーには、ダブステップを下地にしたトラックが多く並んでいる。しかし、本作『Aerotropolis』は、アイコニカ史上もっともベース・ミュージックの要素が減退した作品であり、より高い折衷性と音楽的彩度を獲得した飛躍作だ。


 まず、本作において際立っているのは、初期のシカゴ・ハウスを想起させる荒々しくもディープなグルーヴ。それは「Manchego」などで顕著に表れており、しかもソフト・メタルズ《100% Silk》周辺の、いわゆるインディー・ミュージック側から解釈したハウスに通じるものだ。


 また、ジェシー・ランザをフィーチャーした「Beach Mode(Keep It Simple)」は、グライムスやマリア・ミネルヴァなどのベッドルーム・ポップに近い質感を持っている。実を言うと、こうした質感はアルバム全体にわたって見られるもので、アイコニカの変化をわかりやすく示していると思う。


 そういった意味で本作は、コード9やブリアルよりも、アイタルディスクロージャーといった、ダンスフロアとライヴ・ハウスを跨ぐアーティストたちの領域に近いアルバムだ。おそらく、本作においてアイコニカが試みたのは、ダンスフロアに軸足を置きつつも、自身の音楽性をさらに拡げ、ポップ・ソングとも比肩するキャッチーさを獲得することではないだろうか? その試みは同時に、すべての音楽が特定の場所に閉じ込められることなく、あらゆる場所で鳴り響き届く可能性がある現在の面白さを浮かび上がらせている。


 そんな現在の面白さを内包する本作は図らずも、いまだセクショナリズム的に音楽と戯れる狭隘な音楽リスナーの想像力に挑むような作品となっている。



(近藤真弥)

retweet

バッファロードーター+.jpg

 今年は何かと節目になるアーティストが多いが、シュガー吉永、大野由美子、山本ムーグの三人からなるバッファロー・ドーターも結成から20年目を迎えるという。個人的に、コーネリアスやチボ・マット、シーガル・スクリーミング・キス・ハー・キス・ハーなどを並列に聴きながら、日本内の音楽というものが、そうではない境目を溶解してゆく感覚をおぼえていた90年代後半に、彼らの音に出会ったのを明確に憶えているのもあり、意趣深い。思えば、ビースティー・ボーイズが立ち上げたインディー・レーベル《Grand Royal》とバッファロー・ドーターが契約したときの熱量と共に。《Grand Royal》がフックしたのは良質な音楽だけでなく、ストリート・カルチャーやマガジン・カルチャー、そこに集まった共同体と言おうか、自由に幅を広げていった。


 時代の空気とも合致していたのだろうが、無邪気にかつ水平に多くのものをミックスして、ハイ・センスや知性如何に限らずとも、楽しさと表現の自由を社会にぶつけてゆく時代の香りの芽吹きがそこにはあった。《Mo'Wax》を立ち上げたUKのジェームズ・ラヴェルもそうだが、90年代の半ばからDIY的に国境や言語を越えて、価値観や感性が共有されることで拡がる瀬が確実にあったと思う。今のような同軸上に多様な価値や情報量に膨大なものが逆・適応してしまう状況とはまた違い、輸出されてくる多くの雑誌、フリーペーパー、ZINE、CD、レコードなどが並ぶレコード・ショップの熱気を前にするだけでもその"未知"に胸躍った人も少なくないだろう。


 そこで、98年の彼らのまさしく、『New Rock』というタイトルの作品から聴こえてきた可塑的なサウンド。ニュー・ウェイヴ、アンビエント、ノイエ・ドイチェ・ヴェレ、当時のアセンズ、エレファント6との共振も伺えるリーチの広さは斬新だった。"何でもアリ"なようで、底流に独自の美学やあまたの音楽への敬意が感じられるところも含め、センス的なものだけでは決してない雑食的ながら、アートな佇まいには痺れた。


 一転、02年の『I』は、反復をベースにしながら、しなやかにサウンド・アトモスフィアが拡がってゆく緻密な音像と構成、エレクトロニカ的な要素もありながら、そこに生楽器の融和が美しいバレアリックな作品だった。その後の03年『Pshychic』におけるセッションを重視にしつつも、自己充足に終わらない姿勢など、都度のライヴもそうだが、つねづね、実験と自己への刷新を持って、対峙するバンドであり、こうして活動が続いてきたという轍そのものが頼もしく思える。


 90年代後半のある種の"社交場"として活発だったレーベルやカルチャーが何かと厳しい状態に、それぞれ分派してゆくなか、彼らも次第に独自の道を歩んでゆくことになったのは自明だったといえるが、この20周年記念となる『ReDiscoVer. Best, Re-recordings and Remixes of Buffalo Daughter』は題目から推察できるような、記念的なベスト、アンソロジー、回顧録といったものではない。それには、過去に何度もレーベルを移籍してきた関係で使えない音源があるなど、そういった部分を自分たちやその他のアーティストたちとともに、あくまで今の形でのバッファロー・ドーターをアップデイトしようというものだ。


 新録曲は3曲で、これがまた、面白い。「New Rock」を環ROY&鎮座DOPENESSによるKAKATOの『KARA OK』内の「インザハウス」にてビートジャックしていたものを、今回は正式なコラボレーション曲として冒頭を飾り、いきなり魅了される。続く2曲目の「Beautiful You」は20thヴァージョンとして、日暮愛葉と有島コレスケが参加している。もう1曲は、意外にもレコーディングにおいては初共演となるコーネリアスとの「Great Five Lakes」の20thヴァージョン。旧友ともいえるアーティストや新しい世代との繋ぎ目が鮮やかに巡る。


 なお、リミックス・ワークには、ビースティー・ボーイズのアドロックが担当した遊び心溢れたもの、最近、多くのアーティストのリミックス・ワークを手掛ける大阪在住のトラック・メイカーAvec Avecによる2曲が収められている。もちろん、オリジナル音源からもチョイスされているが、私的に『I』から、「Discotheque Du Paradis」「Volcanic Girl」の2曲が選ばれているのが嬉しい。ライヴ音源も含め、全14曲。時系列も横断しつつ、まったくバラバラながら、ノスタルジックな何かを感じさせず、聴いていて、奔流のようにイメージの束が前景化するのも興味深い。まるで一枚の絵を描くように、音が重ねられる過程、そう、ここには彼らの紆余曲折と果敢な挑戦心に満ちた、長い20年の、あくまで、過程が感じられる気がする。


 長い軌跡を振り返るには、届かないところもあり、ただ、このわずかな14篇のフラグメンツから原基を想起してみるための、エネルギーと全体像への誘惑がある。そして、らしい、粋な試みといえる附属している真っさらな、書き込み可能なCD-Rには個々自在に彼らのこれまでの音を詰め込んでみるなり(ときにこれからを考え、沈黙を録音させておくのもいい)、自分なりの曲リストを作ってみて、過去、現在、未来に尽きぬ想いを馳せるのも一興だと思う。


 彼らからのアイデアに満ちたこの作品は、20年を迎えた自分たちに向けたひとつのけじめのようでトライアルでもあり、多くのファンやアーティストへの感謝の花束とともに、更に進むためのささやかな便りのようなものかもしれない。だから、畏まって受け止めるのではなく、フラットに楽しみ、コンセプトたる「再発見」をたどればいい気がする。



(松浦達)

retweet

STAYCOOL-.jpg

 アジアにおけるシティー・ミュージック(大きすぎる語だという気もするが)という括りは何層ものバイアスが掛かる気もするが、日本に入ってくる情報だけでなく、現地でのライヴハウスでフラットかつ知的に音楽を楽しむユースたちや色んな年齢層の方と話していると、UKでもUS、日本の音楽にも憧れや愛好はあるけれど、自分たちの街でやれることもある、と言われることも増えた。韓国のホンデ・シーン、ジャカルタのネオアコ・シーンなど面白いものは尽きないが、近年の経済発展が著しい台北でも、独自のインディー・シーンが形成され、多くのバンドが生まれている。そもそも、現地のライヴハウスには日本や欧米の人気バンドがブッキングされるのは常であり、カルチャーとしてもかなり貪欲に雑食的に拓けてきているのは知っている人も多いかもしれない。


 日本でも人気の透明雑誌や良質インディーズ・レーベル《風和日麗(A Good Day Records)》の界隈、フィメール・ヴォーカルの腊筆(Labi Wu)による歌唱も印象的ながら、ミニマルな反復をベースにした壮大なインストゥルメンタルをみせ、多彩なバンド・サウンドが特徴的な5人組バンドの草莓救星(We Save Strawberrys)、甘美なメロディーと浮遊感が心地良いフランデ、蠱惑的なアンドレアのステージ・パフォーマンスも鮮やかなポスト・パンク/ニュー・ウェイヴの血脈を受け継いだ3人組マイ・スキン・アゲインスト・ユア・スキンなど、沢山の良質なアクトが犇めいているが、このたびはセカンド・アルバムとなる『Urban Canyon』の日本盤もリリースされ、今後より活躍が期待されるポテンシャルを持ったステイクールというバンドを紹介したいと思う。


 ステイクールの結成は2006年になる。メンバーは作曲、キーボード、ドラム、ジャンベを請け負うスタンリー(陳品先)、ヴォーカル、アコースティック・ギター、作詞担当のウィル(洪璽開)、エレクトリック・ギターのブライアン(游睿威)、ベースのミッシェル(呂明憲)、ヴィオラのトレイシー(蔡純宜)、ヴァイオリンのポンポン(彭乃芸)の男女混成6人グループ。まず、影響を受けたバンド/アーティストに、ジェイソン・ムラーズ、ダニエル・パウター、マッチボックス20、ライフ・ハウス、スウィッチフットの名前が並ぶところから想像できるとおり、とてもオーセンティックなロック、ポップスの香りが要所からしながらも、コールドプレイの持つ大きさと叙情もある。それでも、ステイクールというバンド名とは裏腹に結成当初にて兵役を終え、25〜26歳の青春真っ只中という年齢ではないゆえに、疾走感や衝動よりも、オールディーズからバカラック辺りの褪せない時代への憧憬と、エヴァー・グリーンな音楽への意思がハーモニー・ワークの端々から伺えるところが興味深い。全体的に透き通った空気感、チェンバー・ポップ的な曲に視える残映が美しくもある。


 そして、ウィルのほぼ英語詩で紡がれた内容も日常の延長線に繋がり、センチメントなささやかな匙加減が良い。例えば、恋人との距離感、星や川、海といった自然、パソコン越しの景色、旅というモティーフに引っ掛かるいくつもの季節の断片、それらを丁寧に組み上げてゆくなかで、世界の、アジアの、台北という一都市の、とある若者たちの生き方の交差点を描く。


 Urban Canyon="都市峡谷"というアンビヴァレントな題目に対して、ウィルはメンバーそれぞれが台北という都会で育った人だが、世界中のどこへ行っても、大都市は車も人も多くて、忙しい。でも、ときに立ち止まって考えることがある、という意味で、「都市」と「峡谷」の二義を置いたのだという。


 だからなのだろうか、楽曲的には都市のなかで気忙しく生きる人も出てくるが、少しの"いとま"にて気まぐれな夢や細やかな気遣いを見たりしている風景に馴染む、そんな箇所が散見される。それは世界のどんな都市で生きる人たちとそうは変わらない、何気なさで。朝起きて、服を何か決めるような躍動と、それで街へ出るときの、少しの不安、倦怠と愉しさ、誰もが通底する心情に、打楽器の軽快なリズム、弦楽器の残響、カラフルなメロディー、サポート・メンバーを含めた暖かなバンド・サウンドが寄り添う。そして、ほんのわずかな先へと気持ちを鼓舞させてくれる。今作の充実した内容、そして、ライヴも含めて、これからは日本のみならず、ステイクールの歩みはより強かに刻まれてゆくだろう。



(松浦達)

retweet

rega ad.jpg

 骨太でありながら包容力に満ちた演奏で常にファンを魅了している、ギター2人、ベース、ドラムの4人組インスト・ロックバンド、レガ。彼らが眼鏡市場のCM「鯖江モード篇」用に制作したのがこちら(CM用に作った曲なので、広告という意味そのままの「ad」というタイトルにしたらしい)。


 眼鏡産業が盛んな福井県鯖江市の職人たちが、手仕事で物を作っていく様や鉄を打つ硬質な音、頑固な気質や情熱をイメージして作られた曲だけあって、一層成熟して豊かになった音楽性を披露している。本作を聴けば、彼らが己を誇示する力をめきめきとつけてきたことがよくわかるのだ。


 ロックがもともと持っていたオルタナ成分をグッと押し進めたハイブリッドなサウンド・アプローチ。ギター・プレイを存分にフィーチャーしつつも、強烈に印象に残るドラミングが凄い。そして、ミドル・テンポな楽曲ながら、持ち味の疾走感を失うことはなく、さらに、風格さえ漂うメロディーの成熟ぶりに驚かされる。人の弱さではなく強さに焦点を当てた、ハード・ボイルド小説のようなムード、時空間の感覚を麻痺させるさまざまな肌触りのサウンド・・・。独自の音楽話法を確立させた傑作。



(粂田直子)




【編集部注】「ad」はライヴ会場限定シングルです。

retweet

音楽配信サイトオトトイ傘下TV♭(フラット)で絶賛放送中、テレヴィジョン・クッキーシーン。「最新のものと昔のものを適当に混ぜつつ、時代を超えていい曲(いいミュージック・ヴィデオ)をがんがんかけていく!」というのが基本コンセプトです。


全10曲程度で合計35~55分くらい(昔のLP1枚分くらい)のセットリストが、基本「隔週」木曜日22時に更新され、時間枠いっぱいに何度もリピート・ストリーミング放送中!


初回放送時、最初にセットリストが一巡するくらいまで、今回のセレクター伊藤がツイッターの個人アカウントから軽く(?)曲紹介をおこなう予定です...というか、今回は初回放送から1時間をきった直前告知になってしまいました...。すみません...。


7月18日(木)~7月31日(水)に放送される第29弾は、アークティック・モンキーズの新曲にはじまって、元クリエイション・レコーズ主宰者アラン・マッギーが始めた新レーベル、359ミュージックから作品をリリースする予定のミネラルまで、全10曲、約50分。


昨年から今年にかけての新しいヴィデオ8曲にまじって、00年代ものと80年代ものが1曲づつ、というバランスになっています。


放送日時は以下のとおり。


7月18日 (木) 22:00-24:00 ※初回放送

7月19日 (金) 18:00-20:00 ※再放送(以下同)

7月20日 (土) 10:00-12:00

7月21日 (日) 22:00-24:00

7月22日 (月) 13:00-16:00

7月23日 (火) 16:00-18:00

7月24日 (水) 18:00-20:00

7月25日 (木) 22:00-24:00

7月26日 (金) 18:00-20:00

7月27日 (土) 11:00-13:00

7月28日 (日) 22:00-24:00

7月29日 (月) 13:00-16:00

7月30日 (火) 16:00-18:00

7月31日 (水) 18:00-20:00


なお、第30弾の初回放送は8月1日(木)22時スタート予定。


よろしければ、是非!


2013年7月18日21時18分(HI)

2013年7月18日

|

retweet

retweet

Charlie Boyer and the Voyeurs.jpg

「高尚なお芸術など犬にでも食わせてしまえ!」と彼らが言ったかは分からない。何の話かってチャーリー・ボイヤー・アンド・ザ・ヴォイヤーズのデビュー・アルバムのことだ。


 本作はスコットランドの伝説的バンド、オレンジ・ジュースのエドウィン・コリンズがプロデュースしている。大御所がプロデュースしていると聞くとまず「金とコネだろ」と思ってしまう。そういうケースが実に多いのだ。音楽をビジネスとして捉えた場合ある意味当然かもしれない。政治でもあるまいし公正さは要求されない。ましてや理想を追い求めていたら食っていけなくなってしまう。


 だがプロデューサーがエドウィンとなると話は違う。現在に至るまでインディー・ロックに絶大な影響を与え続けているバンド、オレンジ・ジュースの解散後、しばらく彼は不遇期を経験している。それを経てソロで大ヒットした時に山ほど来たプロデュース依頼を、しかし断り続けたという。金はあったほうがいいけど、だからって同じようなヒット狙いなんかできないから。


 前置きが長くなったが、このチャーリー・ボイヤー・アンド・ザ・ヴォイヤーズはUKの名門《Heavenly》からデビュー。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドやテレヴィジョンの系譜に連なるアート・パンクとしてUKメディアから絶賛されている。ガーディアンでは「サヴェージズが好きならお勧め」という煽り文句でパーマ・ヴァイオレッツやテンプルズらと共に取り上げられていた。


 NMEで2013年7月現在ストリーミングされているが、聴いた印象はむしろT・レックスやスウェードのような色めかしさ、躍動感を感じる。良い意味でのアホっぽさというか生命力と初期衝動。アート・パンクという言葉から来るインテリっぽさをあえて避けているような。色々知ってはいるけど結局気持ちいいロックンロールがやりたいんだ! というような。エドウィン・コリンズが今春発表した、老成しているのに若々しい活気に満ちた新作『Understated』に通じる雰囲気で、それは決して偶然ではないだろう。いやむしろ影響下にある!


 ダニー・ステッド(ベース)、サム・デイヴィス(ギター)、サミル・エスカンダ(ドラム)、ロス・クリスチャン(キーボード)を率いるフロントマン、チャーリー・ボイヤー(ヴォーカル/ギター)は、昨年まではエレクトリシティー・イン・アワ・ホームズのメンバーとして活動。ポスト・パンクを通過したファンク・サウンドは日本でもFile UnderやBig Loveのような輸入レコード店で猛プッシュされ来日公演も果たしている。09年にはニールズ・チルドレンのベーシストとしても活動。それらを経て彼が新たに結成したのがチャーリー・ボイヤー・アンド・ザ・ヴォイヤーズである。


 よく指摘されるリチャード・ヘルやジョナサン・リッチマンといった先達からの影響や、盟友であるトイやザ・ホラーズとの共鳴を探るのもいい。しかし彼らの良さはむしろ経験を経た末にたどりついた無邪気な愚直さにあるのではないか。先述の2バンドから受け継がれたアート・パンク要素をあえて崩した快楽的なギター・リフや懐かしくもダサいオルガン・フレーズが我々を70年代のイギリスへトリップさせる。そう、彼らが犬に食わせたのは過去の自分達自身かもしれない。



(森豊和)

retweet

Soft Metals『Lenses』.jpg

 2013年にもなって、インディー・ミュージック側からイタロ・ディスコの更新通知が届けられるなど、誰が予想できただろう? ソフト・メタルズによる『Lenses』は、リヴァーブとディレイを少々施されたミニマルなサウンドスケープを描きながら、過去を現在にサルベージしてみせる。


 1曲目の「Lenses」は、シカゴ・ハウスのリズムを刻みながら、TB-303風の音色を持ち込むことでアシッド・ハウスも取り入れた、まるでキマイラのようなポップ・ソングだ。2010年リリースのEP「The Cold World Melts」でもアシッド・ハウスの要素は散見されたが、よりダークな音像に接近することで、アシッド・ハウスが持つ酩酊感を見事に浮かび上がらせている。ここ最近、インディー・ミュージックにもジュークが流入することで、"シカゴ"というキーワードのもとにさまざまな文脈が集っているが、その"シカゴ"と共振する点も「Lenses」の面白いところだ。そういった意味で本作は、《Software》などからリリースされてもおかしくない作品だと言える。


 しかし、何よりも驚かされるのは、冒頭で述べたイタロ・ディスコの要素である。特に、近未来的な雰囲気を漂わせるシンセとシークエンスのなかでいなたい女性ヴォーカルが漂う「Tell Me」は、チルウェイヴを通過したイタロ・ディスコそのものではないか! 「Hourglass」も、まるでジョルジオ・モロダーがプロデュースしたかのようなサウンド・プロダクションが際立つ曲であり、先頃『After Dark 2』という興味深いコンピレーション・アルバムをリリースしたレーベル、《Italians Do It Better》に通じる音楽性だ。おまけに「On A Cloud」は、ヒューマン・リーグをアップデートしたミニマル・エレ・ポップに仕上がっており、「In The Air」は『Speak & Spell』期のデペッシュ・モードが2013年にタイム・スリップして作り上げたような、いわゆるハイ・エナジー以前のシンセ・サウンドを妖しく鳴らしている。ダニエル・ミラーなどが好きな往年のニュー・ウェイヴ・ファンも泣いて踊りだすのではないだろうか? アルバム全体を覆うアーティフィシャルな空気は、モデル500やサイボトロンが描いたSF的世界観と類似するものであり、いわば初期のデトロイト・テクノを纏っている。ドレクシアのミステリアスな妖気も少し滲ませながら。


 そんな本作は、2013年から直接80年代にアクセスしたかと思えば、次は00年代に行ってみたり、はたまた90年代に遡ったりと、あたかも奔放な時間旅行者を思わせる作品だ。これまでの作品群を軽々と越える折衷性は間違いなく"今"だが、その折衷性によって編まれたサウンドは、過去の匂いを漂わせている。"死んだ" "終わった"と葬られたあらゆるトラッシュをカットアップ/コラージュし、ポップ・ソングとして蘇らせるそのさまは、さながら古の鍊金術師を思わせる。音楽についていろいろ言われる現在だが、こうした作品に出会える"今"は本当に楽しく、何より面白い。そして、自分の嗜好に忠実であること。素直に"好きなもの"を発露するだけで、十分な強度を持つ表現は可能だと本作は証明している。


 それにしても、本作がダンス・フロアに向けられた"ダンス・ミュージック"としてだけではなく、ライヴ・ハウスでも映える姿が容易に想像できる"インディー"としても捉えられている事実は、見逃すことができない重要なポイントだと思う。LCDサウンドシステムザ・ラプチャーがディスコ・パンクという名のビッグバンを引き起こしてから10年近く経つが、このビックバンは2000年代の10年にわたっておこなわれたジャンルの溶解の大きなキッカケとなり、その途中で溶解が止まりかけながらも、フレンドリー・ファイアーズなど溶解をふたたび促すバンドが出てきたおかげで、完全にストップすることはなかった。それゆえ、2010年以降は《Not Not Fun》が《100% Silk》というダンス・ミュージックに特化したサブ・レーベルを設立し、アイタルディスクロージャーといった、ダンス・フロアとライヴ・ハウスの両方を射程に置くアーティストも注目を集めている。ネットとリアルを接続したストリーミング・チャンネル《Boiler Room》も、2010年以降の音楽を語るうえで重要な存在だ。


 ヴァンパイア・ウィークエンドのクリスは、「いわゆる『インディー』って呼ばれるサウンドが1つじゃなくなってきてる」(※1)と述べているが、こうした変化は"インディー"に限らず、"ハウス"や"ロック"などにも起きているのだろう。もちろん本作も、クリスの言う「変化」によって生まれた成果のひとつである。



(近藤真弥)




※1 : 音楽雑誌『yajirushi』の18頁より引用。

retweet

ムーン・レイ.jpg

 2010年前後に、エレクトロ・スウィングと呼ばれる潮流が出て、世の中に受け入れはじめたとき、個人的にあまり歓待できなかった。それは、一部ではあるが、クラブ・ジャズとカフェ・カルチャーをハイブロウに折衷させた00年代の空気感とは違い、少し粗雑でインスタントな明るさを感じさせたのもある。


 そもそも、スウィング自体には多義あるが、ひとつには、ジャズの歴史下では、1929年の世界大恐慌を経て、じわじわと景況が回復しだした頃のNYを中心にした白人のヴォーカルとビッグ・バンドが鳴らしはじめた演奏スタイル、つまり、モダニズムに繋がってくる前夜のものをいい、そういう意味であれば、モダニズム"以降"の、しかも、やや大味な打ち込みやエレクトロと時代を越え、強引に「接着」させようとした際の異化は、革新というよりも刹那的な要素を孕んでいたとも思えた。


 ただ、奇しくも、2010年代に入る空気感のなかには、そんな刹那性を受け容れる磁場が確かにあったとは思う。00年代を折り返し、一定層が細部への降下、リヴァイヴァルへのメタ認知から転じて、ベタな身体知への希求や閉じた共犯言語的な何かへと向く回流があらわれだしていたのもあり、その回流の一端として、エレクトロ・スウィングは正面を切って、時代錯誤気味に、大きな音でカフェやクラブで流れていた。そこには、ノスタルジアや長い音楽的な歴史背景への配慮よりも、"ムードとしてのオプティミズム"みたいな集合意識の支持もあったような気がする。そして、2010年代が進み、世界のみならず、日本もカオティックな情勢に傾ぐなか、このチュー・チュー・パニーニのように、エレクトロ・スウィング"以降"において、より小文字な音楽に等価交換したといえる、リンディー・ホップへと対峙しているのは興味深い。


 リンディー・ホップとは、1920年代にニューヨークのハーレムの黒人たちのなかで生まれ、1930年代に流行ったダンス・ステップのこと。語義由来は、創設者のショーティー・ジョージとビッグベンが、リンドバーグが大西洋横断に成功したニュースの見出し(リンドバーグがホップした)からなり、タップ、ブレークアウェイ、チャールストンなどをベースに人気を博したもので、リンドバーグそのものの人気や存在の翳りもあったのか、リンディー・ホップの名称は80年代を経た、リヴァイヴァルのうえで今に至る間、1930年代ではベニー・グッドマンによるジッターバグに取って代わられ、更にはジャイヴなどへとも継承されてゆくことになる。


 そんな、スウィングほどの大文字ではない、リンディー・ホップを今に再定義しようとするのは、クセはないが、滑らかな歌声を魅せるドイツ出身のフィメール・ヴォーカリスト、ネリー・コースターと、ギター、トランペット、トロンボーン、チューバを演奏するポーランド出身のラディック・フェイドクを中心とするドイツ、オランダを主活動とするユニット。ちなみに、この『Moon Ray』の録音もそうだが、ライヴでは基本、ピアノのローマン・バビック、ベースのニールス・エムフォースト、ドラムのパトリック・フリングストのクインテット編成で行なわれる。当初は、まさにヨーロッパにおけるリンディー・ホップのダンス・パーティーの小さなシーンから始まり、こうして、地域性を越えて、じわじわと拡がりが出てきているということは、彼らの音が一概に狭いジャンルや国柄を越えてくるものがあるということだろう。


 聴く人が聴けば、淡くジャジーなグルーヴが心地良い、または、昨今のオーガニック・スウィングの流れのひとつという浅薄な印象論に帰すかもしれない。ましてや、エラ・フィッツジェラルドの歌唱で有名な「A Tisket A Tasket」、ナット・キング・コールの「Straighten Up And Fly Right」などスタンダードな曲と呼ばれるものが俎上に置かれているのもあり、古いレコードに改めて針を落とすような気分にもなり、匿名的な音として十把一絡げにジャズ・コーナーやカフェ・ミュージックの棚に並べられる杞憂もないでもない。


 ただ、個人的には、わざわざジャケットに"lindy hop approved"を付し、アレンジメントの細部をよく視たときの変性が気になる。特に、後半9曲目の1942年のアンディ・ラザフとピアニスト、ラッキー・ロバーツによる「Massachusetts」から最後の、ジョージ・シアリングによって作られたスタンダード・ナンバーである1952年の「Lullaby Of Birdland」に至る流れは、とても現代的な響きをもって心の琴線に届いた。


《Lullaby of birdland whisper low / Kiss me sweet, and we'll go(バードランドの子守歌がかぼそくささやいたら / 私にくちづけを そして 私たちは行きましょう(筆者拙訳)》

(「Lullaby Of Birdland」)


 あらゆるアレンジやカヴァーがなされ、スイートな場所や、部屋、ベッドルーム、雑踏で数え切れないほど、流れただろうラブソングがこの『Moon Ray』を通して最後に聴こえてくると、じんわりと今のこの、日々刻々の行間を縫い、優しく響く。元来のリンディー・ホップの持っていた刹那的なダンス・ステップを踏んでいる間に、ある瞬間、日々は、夜はあっという間に明けてしまう。しかも、何かをしているようで、何もしていないように。

 

 これは、現代における、ほんのささやかな社交のための音楽なのかもしれない。社交といっても、ゲオルク・ジンメルのような精緻な定義ではなく、正装したり、構えたり、コミュニティにこもることなく、もっと軽やかに、ほんのわずかな時間と小さな音にも五感を預ける余裕があれば、誰かと繋がれる、そんな。



(松浦達)

retweet

The Watermark High「Murmurs EP」.jpg

 まず、迫力のあるジャケットに目を惹かれる。カットアップ/コラージュで作られたそのジャケットは、サンプリングを主体に作られた本作「Murmurs EP」を見事にヴィジュアルとして表現しきっている。


 本作を作り上げたのは、南アフリカはヨハネスブルグを拠点に活動するザ・ウォーターマーク・ハイ。彼の音楽を一言で表せば、おそらくビート・ミュージックということになるのだろうが、おもちゃ箱のようにキラキラとしたそのサウンドスケープは、まるで歌っているかのようなポップ・ソングとしてのキャッチーさを獲得し、単一タグでは括れない音楽的彩度がある。


 全5曲のすべてが弾けるような躍動感をこれでもかとアピールし、トロピカルなサウンドと奔放なサンプリング・センス、それからダイナミックなビートなど、本作を組成するあらゆる要素が瑞々しさを放っている。荒々しくも刺激的な響きをもつ音色、そして自身の感性をそのまま音に変換したような感覚的かつのびのびとした作風は、アンリ・マティスやモーリス・ド・ヴラマンクといった、いわゆるフォーヴィスム周辺の絵画作品を彷彿させる。いわば本作は、"音を鳴らしている"というよりは、"音を描いている"と言ったほうが適切なサウンドを創造している。


 それが顕著に表れているのが、1曲目の「Life's That」である。地を揺るがすほどの強烈なビートが印象的に刻まれながらも、優雅で上品なサウンドが次々と飛び出してくる。ブームや固定化したスタイルとは無縁の場所からこうした作品が生まれてくること、また、そうした作品に出会えたことを嬉しく思えるような本作は、あらゆる"音楽好き"の心に届くはずだ。



(近藤真弥)



【編集部注】本作はザ・ウォーターマーク・ハイのバンドキャンプでダウンロードできます。

2013年7月12日

|

retweet

2013年7月12日更新分レヴューです。

SUN KIL MOON & THE ALBUM LEAF『Perils From The Sea』
2013年7月12日 更新
DAVID LYNCH『The Big Dream』
2013年7月12日 更新
CLOUDS『Ghost Systems Rave』
2013年7月12日 更新
溶けない名前「おやすみA感覚e.p.」
2013年7月12日 更新

retweet

ミツメ「うつろ」.jpg

 いまや、日本のインディー・ミュージック界においてもっとも注目されるバンドのひとつとなったミツメ。しかし、彼らはその飄々とした態度を変えることはない。セカンド・アルバム『eye』をリリースしてからおこなわれたライヴをいくつか観たが、そこにはいつものミツメが佇んでいた。変に観客を煽るわけでもなく、淡々と曲を演奏していくその姿は、まるで空気のようである。しかし、それゆえ筆者は、ミツメの音楽に自然と手を伸ばしてしまうのかもしれない。空気だからこそ、聴き手の心にスッと寄り添い、ときには温もり、ときには励ましをあたえてくれる。


 それは最新EP「うつろ」でも変わらない。ただ、「うつろ」である。その言葉は、誰もが抱えているどこかネガティヴな側面をイメージさせる。しかし全4曲の本作は、暗い雰囲気を漂わせる作品などではない。むしろ、聴いていて心地よさを感じる音像は、陽性なフィーリングを纏っている。


 過剰な装飾とは無縁のギター・サウンドが全編にわたって印象的に鳴り響くさまは、ほんの少しサイケデリックではあるものの、オレンジ・ジュース、アズテック・カメラあたりを想起させるイノセンスと爽やかさが際立つ。そこに、ビーチ・ボーイズに通じるサーフ・ポップの要素を振りかけることで、燦々と輝く太陽を振り向かせる人懐っこさも生み出している。どこか内観的だった『eye』と比べると、本作はよりオープン・マインドな姿勢を窺うことができるものだ。


 とはいえ、そんな本作を聴いて思い浮かべるのは、やはり喜楽に一抹の寂寞が滲むような風景である。例えば、大勢の人が踊り狂うパーティーのなか、その輪から離れてひとりスマートフォンをいじっている女性だったり、あるいは、学校での休み時間、外で元気に遊ぶ子供たちに後ろ髪を引かれつつ図書室で読書に勤しむ少年とか。もっと言えば本作は、その女性や少年と類似する部分を持つ人に向けられた作品のように聞こえる。いわば、狂騒に馴染めない者たちのために作り上げられたユートピア。それが「うつろ」なのではないか?


 逃避的な言葉が並ぶ歌詞もそうした推察を助長させ、同時にそのユートピアがどこへ向かっているのか、とても楽しみに思わせてくれる。筆者の目からは、かつてフィッシュマンズが歩んだ日常に潜む非日常への道をなぞっているように見えるのだが・・・。とにかく次を待ちたいと思う。



(近藤真弥)

retweet

オブリヴィアンズ―.jpg

 着実にキャリアを重ねてきているディアハンターの素晴らしい新作もそうだったが、ガレージ・ロック的にラフに、しかし、サウンドの骨格だけ軋ませて投げ出すようなアーティストの姿勢が地表化していることが散見されてきた。それは、ソフィティケイティッドされ、やや情報過多になってしまった音楽や現実逃避的なものを求める流れへの反動か、それとも、シンプルなコードで今、言えるフレーズを野放図に伝える原点回帰の道か、00年代のリヴァイヴァルのような何かではなく、今のガレージ・ロックとはもっとアクチュアルに、混沌たる時代の空気感とある一定の磁場とシンクするような気がする。


 例えば、アイルランドの新鋭、ザ・ストライプスもリズム・アンド・ブルーズ、60年代的なクラシカルなムードをベースに若さゆえの衝動といった安直な言葉ではなく、若さが内包する背伸びした老成のような知性、視点から幾つものアーティストに敬意を払い、リファレンスしている。チャック・ベリーは元より、ドクター・フィールグッド、エディー・アンド・ザ・ホット・ロッズ、ストーンズ、ヤードバーズなどの面々。そのなかに、おそらく混ざってきても全くおかしくない、メンフィスのオブリヴィアンズの1997年以来、実に16年振りとなる新作『Desperation』がクールで、とてもいい。ほぼ、1分から2分台の曲が並び、原初期のロックン・ロールの躍動をベースに、サイケデリックなオルガンの入った曲にはドアーズの影もちらつく。勿論、デルタ・ブルーズから、70年代後半辺りのパンク、腰にくるようなグルーヴを持った曲まで、さすがホワイト・ストライプスや多くのアーティストに影響を与えてきただけの引き出しと多彩さはあるが、基本、ロックンロールの愉しさを謳歌しようとしている3人の姿が浮かんでくるのが微笑ましい。


 そもそも、オブリヴィアンズとは、90年代に活動していたグレッグ、エリック、ジャックからなるスリーピース。90年代後半からの活動休止後もソロ・ワークを進めていたのもあり、こうして3人で集まると、やはり戻ってきたという感覚はあるものの、それぞれがオブリヴィアンズという傘の下で、再び音を合わせてみよう、そんなところが強くうかがえる。クイントロンやミス・プッシーキャットの客演も花を添え、聴いていて、ただ、昂揚してしまう。


 ポール・バターフィールド・ブルース・バンド「Lovin' Cup」のカヴァーも絶妙で、30分ほどの間、ロックン・ロールの熱に飛ばされる。割れた音の端々から聴こえる咆哮、メッセージ性、少しのミスなど無関係な勢い、心地良いコーラス・ワーク。これまで、彼らの名前を知らなかったとしても、このジャケットや音は年齢や人を選ばないと思う。


 何か時代を背負っているとか新しい実験に挑むとか、そういったものや小難しさとは違う場所で、ひずんだ衝迫にただ、魅せられてみるのもいいのではないだろうか。



(松浦達)

retweet

Kölsch『1977』.jpg

 《Kompakt》の名を聞いてまず思い浮かべるのは、ザ・フィールドのような、柔和さと温もりを宿したトランシーなエレクトロニック・サウンドだと思う。特にギー・ボラット『Chromophobia』や、ザ・フィールド『From Here We Go Sublime』が立て続けにリリースされた2007年頃、いわゆる"シューゲイズ・ハウス"と呼ばれていた音が注目を集めていた時期に《Kompakt》を知った者なら、尚更だろう。いま挙げたふたつのアルバムは、往年のテクノ・ファンだけでなく、シューゲイザーの文脈を経由することで、多くのロック・ファンを取り込むことにも成功している。


 だが、ここ最近の《Kompakt》は、そのロック・ファンをレーベルのルーツに導くようなリリースが続いている。例えば、マイケル・メイヤー「Mantasy Remixe 2」といった作品は、ザ・フィールドやギー・ボラットをキッカケに《Kompakt》の深い森へ足を踏み入れた者を意識しつつも、やりたいことをやるという、レーベルの設立当初から現在まで変わらず根底にあるシンプルなアイデンティティーを発露している。それは先述のイメージではなく、長年レーベルを支えてきたファンに捧げられた愛情のようにも見える。とはいえ、もともと流行とは距離を置いたリリースによって支持を集めてきたレーベルなだけに、こうした孤高の道を行く方向性は、大仰に驚くことではない。


 ケルシュのデビュー・アルバム『1977』を聴いても、それは変わらない。しかし、それでも本作をプレーヤーに乗せ、繰り返し再生してしまうのは、聴いていると感慨を抱くからだ。ケルシュことルーン・ライリー・ケルシュは、デッドマウスとイモージェン・ヒープによる「Telemiscommunications」のリミックスを手掛けるなど、メジャーなフィールドで活躍している才人。それゆえ、冒頭の「Goldfisch」「Opa」にはEDMの要素が少なからず入り込んでいるものの、アルバム全体を支配する抜けの良い恍惚感と多幸感は、《Kompakt》が売りとしているサウンドそのものである。しかもそれは、"シューゲイズ・ハウス"以降のものではなく、ヴォイト・アンド・ヴォイトやマイケル・メイヤーといった、黎明期から《Kompakt》の屋台骨を支えてきたアーティストに通じる質感なのだ。この質感から窺えるのは、大きなトレンドの波が押し寄せても揺るがない力強さと自信。もちろん幅広い層に訴えかける音楽性も本作の売りではあるが、それ以上に、レーベルを運営するうえで積み上げてきた努力と膨大な試行錯誤に思いを馳せてしまう。そんな本作は、《Kompakt》ファンにとって最高のプレゼントになるはずだ。



(近藤真弥)

retweet

The Japanese Popstars『Disconnect : Reconnect』.jpg

 アンダーワールドやケミカル・ブラザーズ、それからオービタルなど、スタジアムを揺らすことができるダンス・アクトの系譜を受け継ぐバンド。一言で言えば、ザ・ジャパニーズ・ポップスターズとはそういう存在だ。前作『Controlling Your Allegiance』は、ザ・キュアーのロバート・スミス、エディターズのトム・スミスといったヴォーカリストを迎えた多彩なゲスト陣が目を引くアルバムだったが、本作は「Matter Of Time」に参加したグリーン・ヴェルヴェット以外は目立ったゲストもなく、太いボトムと強烈な出音を聴き手にアピールする、ストイックな内容となっている。


 プログレッシヴ・ハウス界で名を馳せるジョン・ディグウィードのレーベル《Bedrock》からのリリースということもあり、「Out Of No Where」などはプログレッシヴ・ハウスの要素を取り入れているが、収録曲のほとんどはスケールの大きさが際立つダンス・ミュージックで占められ、音楽フェスといった野外でこそ本領を発揮しそう。お世辞にも最先端かつ先鋭的とは言えないサウンドながら、クラウドを盛り上げるツボを心得たトラック・メイキングの巧妙さは、ローラン・ガルニエやフランソワ・ケヴォーキアンに気に入られるだけあって、さすがのレベルにある。


 そんな本作を聴いて、アンダーワールド「Born Slippy」やファットボーイ・スリム「The Rockafeller Skank」が席巻した90年代をリアルタイムで過ごした者は、ある種の古臭さ、もっと言えばダサさを感じてしまうかもしれない。だが、ザ・ジャパニーズ・ポップスターズの3人は、そんなことは関係ないとばかりに敬愛するアンダーワールドやケミカル・ブラザーズへ通じるサウンドを鳴らしてみせる。もはや、ダサいかどうかという時代ではないのだ。ザ・ジャパニーズ・ポップスターズは自身の嗜好に従った結果、こんなにも熱狂的なアルバムを完成させることができた。そのあたりのことを、本作に対して距離を置く懐古主義者は考えたほうがいい。



(近藤真弥)

retweet

音楽配信サイトオトトイ傘下TV♭(フラット)で絶賛放送中、テレヴィジョン・クッキーシーン。「最新のものと昔のものを適当に混ぜつつ、時代を超えていい曲(いいミュージック・ヴィデオ)をがんがんかけていく!」というのが基本コンセプトです。


全10曲程度で合計35~55分くらい(昔のLP1枚分くらい)のセット・リストが毎週木曜日22時に更新され、時間枠いっぱいに何度もリピート・ストリーミング放送中!


本来であれば7月4日(木)22時から第29弾の初回放送がおこなわれるはずだったんですが、第29弾のセレクター伊藤の体調不良により、第28弾をさらにもう1週間再放送させていただきます。すみません...!


7月11日(木)22:00-24:00 ※再放送(以下同)

7月12日(金)18:00-20:00

7月13日(土)20:00-22:00

7月14日(日)22:00-24:00

7月15日(月)13:00-16:00

7月16日(火)16:00-18:00

7月17日(水)18:00-20:00


第29弾の初回放送は7月18日(木)22時スタート予定。


申し訳ありませんが、よろしくお願いいたします。


2013年7月10日16時02分(HI)

2013年7月5日

|

retweet

2013年7月5日更新分レヴューです。

DISCLOSURE『Settle』
2013年7月5日 更新
KOBO TOWN『Jumbie In The Jukebox』
2013年7月5日 更新
水中図鑑「ふれるところ、ささるとげ」
2013年7月5日 更新
GÜLAY『Damlalar III』
2013年7月5日 更新

retweet

音楽配信サイトオトトイ傘下TV♭(フラット)で絶賛放送中、テレヴィジョン・クッキーシーン。「最新のものと昔のものを適当に混ぜつつ、時代を超えていい曲(いいミュージック・ヴィデオ)をがんがんかけていく!」というのが基本コンセプトです。


全10曲程度で合計35~55分くらい(昔のLP1枚分くらい)のセット・リストが毎週木曜日22時に更新され、時間枠いっぱいに何度もリピート・ストリーミング放送中!


でもって、先々週予告したとおり、本来であれば7月4日(木)22時から第29弾の初回放送がおこなわれるはずだったんですが、第29弾のセレクター伊藤の体調不良により、第28弾をもう1週間再放送させていただきます。すみません...!


7月4日(木)22:00-24:00 ※再放送(以下同)

7月5日(金)18:00-20:00

7月6日(土)20:00-22:00

7月7日(日)22:00-24:00

7月8日(月)13:00-16:00

7月9日(火)16:00-18:00

7月10日(水)18:00-20:00


第29弾の初回放送は7月11日(木)22時スタート予定。


申し訳ありませんが、よろしくお願いいたします。


2013年7月4日9時35分(HI)

2013年7月1日

|

retweet

2013年7月1日更新分レヴューです。

BOARDS OF CANADA『Tomorrow's Harvest』
2013年7月1日更新分 更新
Les ANARCHO「OKANE WO MOYASOU」
2013年7月1日更新分 更新
BLACK JAZZ CONSORTIUM『Codes And Metaphors』
2013年7月1日更新分 更新
環ROY『ラッキー』
2013年7月1日更新分 更新
CZECHO NO REPUBLIC「Festival」
2013年7月1日更新分 更新
 1  |  2  |  3  |  4  | All pages>