カナタトクラス「遠景小唄集2」(Swim Free Records)

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 音楽だけでなく、映画や文学なども含めたあらゆる文化には、政治やジャーナリズムでは掬いきれないマイノリティーな側面に対して寛容であってほしいと願っている。もちろん、何かを絶対的な価値観とし、それ実行に移し実現させる"強さ"も、ある部分、それこそ政治やジャーナリズムでは必要だと思う。しかし、その"強さ"は時に、その他の小さい萌芽を排することにも繋がる。だが、その小さい萌芽を大事に思う者も当然いるわけで、だからこそ音楽は、現在も発展を遂げながら、人々のあいだで受け継がれている。


 そうした音楽にも、わざわざ殺伐とした"アンチ"や"カウンター"を持ち込み、批判なき否定を蔓延させてしまうのはどうなんだろうと、ここ最近思うことが多くなった。少し陳腐な言い回しになってしまうが、人はそれぞれ性格も違えば、生まれ育った環境も違う。当たりまえと言えば当たりまえだが、そんな当たりまえなことを多くの人が忘れているように見える。何も、ひとつのナニカに集う、いわば全体主義的な枠組みにすべてを強引に当てはめる必要などないのではないか? そもそも、似た者同士だけで作られた"集団"や"繋がり"の馴れ合いに何の価値があるのだろうか? 似た者同士ではないからこそ、"繋がり"には価値があり、尊い。ここ数年のあいだでよく見かけるようになった、いわゆる"ポスト・シティー・ポップ"という音楽は、そういったことを我々に示している気がする。もっと言えば、"わかりあえないことをわかりあおう、そして、そこから始めよう"。こうした一見ネガティヴな諦念のように見えて、その実、前に進むための希望として求められているのが、"ポスト・シティー・ポップ"と呼ばれる音楽ではないか。


 カナタトクラスはキャッチーなメロディーを書けるし、日常に潜むドラマティックな場面や瞬間を切り取る歌詞も秀逸。そんなカナタトクラスの音楽を聴いていると、ほんの少し人生が色鮮やかになり、簡単な用事を済ますためだけの外出でさえ、目の前の景色が晴々とし、楽しい気分にさせられる。わかりやすいマッチョな強さがあるわけではないが、風が吹けば一瞬で消し飛んでしまいそうな感情の残滓を描くその姿は、十分な強度を持っている。そういった意味でカナタトクラスは、ポスト・シティー・ポップと呼ばれるに相応しい資質と音楽性を備え、何よりロマンがある。


 とはいえ、ポスト・シティー・ポップ云々について知らなくても楽しめるのが、本作の良いところ。特に1曲目の「風物詩」は、ザ・ラーズやブライアン・ウィルソン、スピッツなどに通じる要素が散りばめられたメロディーとアレンジが光り、その豊穣な音楽的背景を感じさせるサウンドは、聴き手を一瞬で虜にする。


 しかし、海外の音楽にかぶれるわけでもなく、かといって安易に流行を取り入れるわけでもない。あくまでカナタトクラスは、繊細な言葉で歌を紡ぎ、甘美なメロディーを鳴らし続ける。そうした姿勢が生み出すのは、紛れもなくカナタトクラスにしか鳴らせない音楽だ。先述したように、カナタトクラスは"ポスト・シティー・ポップ"と呼ばれるに相応しく、実際にそう言われることも多いと思うが、仮にそうしたタグがなかったとしても、カナタトクラスの音楽は誰かにとって大切なものになりえたはず。そんなカナタトクラスの音楽的ポテンシャルを、本作は明確に示してくれる。



(近藤真弥)

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