GÜLAY『Damlalar III』(Gnp Gen Produksiyon / RICE)

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 2006年にトルコのオルハン・パムクがノーベル文学賞を受賞し、トルコという場所に巡る文化のみならず、イスラム圏を巡る周辺環境には日本含め世界から注視されてきたが、昨今のデモの報道、その捉え方などを鑑みると、いまだ遠い国のような、オリエンタリズムをとおした濃厚な色眼鏡がかかってしまうところも感じる。音楽にしても、その多様性をして、明瞭に解釈されているのかというと疑念が残る。疑念といっても、タルカンやセラタブ・エレネルのような世界的に活躍しているポピュラー・アーティストもいる。また、トルコの古典音楽の芸術性の高さは世界のアーティスト諸氏を魅了し、音源群のコンパイルは次々と為されている。リュートや笛などの諸楽器で奏でられるそれは、今やアラビック・ポップスなどと混ざり合いながら、よりカオティックにグローバル化している気配も出てきており、興味深い事柄も多い。また、東西の交差点としてヨーロッパ的な装飾とアジアの土着性を昇華してきた過去の轍を辿っていけば、マルチカルチュラリズムという題目下で様々な問題が検討される余地は今こそ山積しているといえる。反比して、モノカルチャラリズム的に、純然と自国の音楽文化を護ってゆく趨勢もありながらも、サイレント・マジョリティーがしっかり下支えしていた伝統や文化の概念性が一定の"もてる層"の作為によって変えられてしまう、そんな瀬も世界各国でないとはいえず、トルコもそういう要素は一部、地表化もしてきている。


 例えば、人類学者がマルチカルチュラリズムを批判する際における文化と権力の装置性の境界については、現在ではややナイーヴすぎる要素もあるかもしれない、ということだ。差異、違いを"違い"であることを認証し合いながら、共存してゆくことと、予め規定されたと思しきパラメータ内での同じような"違い"を共有してゆくことの差分は認知しないといけない。ただ、政治的背景以外にも経済的与件等も合わさり、現代を巡る国家間の境界のみならず、ネーションステートは寧ろどこに帰一するのかと考えるならば、そこは国家間を通じての包摂、排除の認識と再定義の意味はより深く絡まる。


 この才媛ギュライの7年振りとなる最新作にして、00年からの"Damlalar"シリーズとしては11年振りとなる『Damlalar III』を聴いていると、トルコ民謡であるハルクと呼ばれるものを軸にしながら、アクチュアルに胸を打ち、トルコ音楽というものの多様性だけでは語り尽くせない言語を越えた得も言われぬ切なさ、痛み、懐かしさをおぼえる。そして、これまで書いたようなマルチカルチャラリズムを巡る隔靴掻痒たる思考にヒントも付与してくれる。"ハルク"の特徴の複雑な変拍子、独特の旋律に、悲哀がこもり、ときに鬼気さえ帯びる彼女のハスキーな歌声がシビアなテーマをまるで哭くようになぞり、歌われる。望郷、貧困、報われない恋、生きる悲しみ。


 バック・サウンドにはバーラマというリュート、弓で弦を擦り、音を鳴らすケメンチェ、木管楽器のズルナ、葦笛のネイなど伝統楽器の音色も目立つが、エレキ、アコースティック・ギターやパーカッション、キーボードのアレンジメントもあり、いかにも民謡的な、というよりも立体的でモダンな印象が強い。1曲目の「Al Eyvanda Han Kalmad」からサウンド・アンビエンスが美しい8分に迫る壮大な世界観が拡がり、時おり挟まれるキーボードの柔らかなタッチが澄みきった空気を倍化させる。7曲目の「Zalim Dunya」などはそのメロディーやアレンジメントだけを捉えると、ベイルートことザック・コンドンが歌っても遜色がないような、そんな感じも個人的にうける。全体をとおして、"ダムララル"過去二作と比しても、一番、洗練されているような気がするとともに、より新たなリスナーを獲得するのではないだろうか。ギュライの今作はおそらく、世界のどこで誰が聴いても感じる根源的な何かがある。こうして、音楽は世界を近くさせ、言語や国境線を越えた感情を揺さぶる。



(松浦達)

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