DAVID LYNCH『The Big Dream』(Sunday Best / Beat)

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 街の雑物に塗れながら、そこで瞼を下ろさずに新たな形式で"文学"的実存を体現していた故・色川武大の著に『唄えば天国 ジャズソング―命から二番目に大事な歌』がある。章ごとに例えば、「イズント・ジス・ア・ラブリィ・デイ」や「シカゴ・ザット・タドリング・ダウン」などのジャズの決して本流とはいえない曲名を付し、幼少期からのアメリカのカルチャーへの雑想を書き連ねている。野放図な想像力、大人の遊びめいたフェイク、そして、物悲しさ。そもそも、外れ者が、正義と相対していたという一元論は無効だとしても、誰もが「マイ・フェイバリット・シングス」に酔う瀬は味気ない。


 デヴィッド・リンチのセカンド・アルバム『The Big Dream』はこの時代に同期する作品として捉えるにはあまりに滋味深く、派手な意匠もなく、ビート・メイクも最新のものではない。ただ、そういった判断は尚早といえるのは何度も聴き込むほどに、淡白に思えたアルバム自体が立体的に、また、新たな色や響きを孕んでくるからでもあり、音楽の本懐とはその瞬間に消費されるだけでなく、こうした意味を醸す要素も大きい。


 当初は、ウィッチ・ハウス的な共振が伺えると以前のレヴューで書いたが、その後のファースト・アルバムではエレ・ポップに軽やかにかつカジュアルな側面も見せたのも周知のとおりだろう。そして、この当該作品をして時代の趨勢とは(あらかじめ)非=関係であり、リンチはそのまま、ひとりの寓話師として、歌手としては寧ろオーソドックスな類いの性格を持っていたように思えてしまう。


 ただ、発想やフレーズ群が映像的であり、音楽的に凝るものではない分だけ、ジョニー・キャッシュの後年におけるリック・ルービンと組んだアメリカ・シリーズで見せた凄みやランブリン・ジャック・エリオット『A Stranger Here』などに通じる何かも感じる。広大無辺なアメリカにおける大きな夢(The Big Dream)の破片が静かにさんざめく。


 参加メンバーは至ってシンプル。彼のスタジオ・エンジニアのディーン・ハーレーが各楽器、イコランジングまでをメイン・サポートし、リンチが歌とギターを担っている。(注:リッキー・リーが客演した曲やリンチの息子がギターで参加している曲もある)。ミディアム、または、スローなテンポの曲が大半をしめ、ハーレーによるスペーシーな音響や巧みな手腕も活き、音数は限りなく少なく、メロディーによってはスイートでノスタルジックさえおぼえるトラディショナルな曲も含まれている。そこに、彼の鼻にかかった声が"歌う"というよりも、崩し気味に言葉を置くように、ときにトーキン・スタイルで乗ってくる。フォーク、ブルーズ・ミュージックの系譜に沿い、彼の撮る映画のような不可思議な手触りも残す。


 先行曲の「Are You Sure/Star Dream Girl」で垣間見えたように、明瞭な詩はロマンティシズムと刹那の優しさが閃き、マッドな感覚も挟み込まれる。もしかして恋に落ちたのかい、という問い、"Star Dream Girl"の夢を見ようとする彼ら、光や最後の伝言、曲ごとに登場者、「私」が変わってゆくようで、彼自身そのものであるかのように、黄昏と素面な感性が反射する。老境に差し掛かってきた彼の人生の来し方に聴き手はさまざまな想いも馳せられるが、それを時おり翻すようにシニカルに、虚無に離すようなところまで"らしい"内容になっている。映像作家、映画監督としての彼もそうだが、より歌手としての今後に興味が湧く充実した内容になっていると思う。


 外れ者が傍流を往き続けた先に、誰しもが内在的に抱える、普遍にして真ん中の叙情と交叉する、そんな証左なのかもしれない。



(松浦達)

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