CZECHO NO REPUBLIC「Festival」(Mini Muff)

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 奇縁は結実するということか、今年2月の《Hostess Club Weekender》で来日したヴァンパイア・ウィークエンドと、彼らのエッセンスを継承しているバンドとしては日本でも屈指だろうチェコ・ノー・リパブリックの対談が「成立」したということはエポックだったと思う。


 ヴァンパイア・ウィークエンドは3rdアルバムとなる新作にて、アメリカン・トラディショナルへの近接を示しながらも、過去に孕んでいたトーキング・ヘッズからアフリカン・ポリリズム、多文化次元主義を嚥下したうえで、オルタナティヴが「真ん中」を射抜くことを示した。「ゲゼルシャフト(利益主義社会)」に対し、「ゲマインシャフト」という共同性を持ち込んだ不可思議な捻じれがそれでも、70年代後半のニューヨーク・パンクのように芸術・本質的価値を奪回しようとしていたことのエッジを立っていたとするならば、ロンドン・パンクが経済的与件や制約階級制と結びついていた輻射が、昨今の日本で、空元気的なムードとは、インフレ・ターゲット論や気分としての景況上昇予感と結い目を合わせるような気さえおぼえてしまう。


 2013年での風景の奥行きはまさしく視えなくても、シビアな戦時下に置かれているとはいえる。他地域の紛争、隣国圏域のアジア、アメリカ、さらには多くの要素因子が繋がりあったグローバリゼーション下で、孤島化しつつある日本という問題だけではなく、「第三の道」が模索出来なくなってきたという集合的無意識は後景に浮揚する。


 "権利<責任"、"排除<包括"、そして、競争を平等に付与するのではなく、機会を与えるということ。ゆえに、プライマル・スクリームが新作の『More Light』で叫んだ咆哮とはバレアリックでもエクストリームな自由主義でもないと思った。ひとりの人間が世に累積される多くの懸念や憂慮事に「OK」と言うにあたっての必要十分条件を、轍やキャリアを踏みしめ、おこなったともいえるからだ。


 まず、グループ組成型リゾームを伸ばしていけば、自ずとそこで「断絶」が生まれる。それを越境する大きな言葉はあるのだろうか、チェコ・ノー・リパブリックは昨年の作品「Ivory」でフォークロアに何かしらの希求を辿り、おだやかな祭祀性は、"森の中での密やかな契り"を思わせた。


 今年になり、既存メンバーの武井優心(ヴォーカル/ベース)、山崎正太郎(ドラム)、八木類(ギター/コーラス/ヴォーカル)に、紅一点のタカハシマイ(コーラス/シンセ/ギター/パーカッション)、砂川一黄(ギター)が正式に加入し、五人体制になってからの新しいリ・スタート、決意表明のようで、今の日本のシーンでは確実に浮くであろう「Festival」というシングルをリリースするのは決してジェット・ラグでもなく、これまでの彼らを知っている人にとっても、裏切られることのない内容になっていると思う。


 内容そのものは素晴らしかったフェニックスの新作でさえ、多くのリスナーをより訴求した上でも、噛み合いにくかったかもしれないこの時世にて、表題曲「Festival」はタイトルどおり、昨夏に野外フェスに参加した昂揚をソングライターの武井自身が俯瞰気味に、なおかつこれまでのサウンド・ボキャブラリーを圧縮したトイボックス・ポップに昇華している。「A-Punk」的にシンセの音色から疾走感まで、3分ほどの間に転調や微妙な歌詞のズレ、タカハシマイのコーラス・ワークまでが渾然一体となりつつ、深刻さを敢えてカラフルに避わしてゆく。《ほんのちょっと子供に戻ろう》《笑って輪になって僕ら踊ろうよ 大丈夫 アイラブユー 間違いなんてない》という全能的なフレーズを縫い、いつかのフラワー・ムーヴメント、ヒッピー・イズムの再定義さえも現代的に求めてきたバンドとしてはやはり、広大無辺な夢を見る。


《僕らまたきっとここで笑って会えるよ 大丈夫 さぁ帰ろう またね 夢を見たよ 宇宙の中》

(「Festival」)


 また、と、きっとに離反しての「大丈夫」と「夢を見ていたこと」。思えば、彼らは初めからどこかニヒリスティックで有り得ない概念に夢を見ては内省し続けてきた。森、虹、短い休暇、恐竜、伝統寓話、撹拌されたサイケデリックな時期のビートルズのように、ときにOK GOのPVのように、ニュー・エキセントリックからブルックリン・シーンの趨勢のなかでのノリと煌めきを同時にアップデイトして、翻訳したような様は独自の道を歩んでいるように見え、参照点の多さを指摘される向きもあったが、メンバーの変遷と着実なライヴ評価も経て、ワン・アンド・オンリーになっていることを感じる。


 昨年の「IVORY」にシークレット・トラックで入っていたタカハシマイがメイン・ボーカルを取る「ファインデイ」も今回、正式におさめられているが、「ペニー・レイン」をスキップするような極上のポップネスにコーディングされている。雨模様の日を拒む願望の主人公、美しい晴れを求める唄。でも、《嘘泣きの美しさ》とも示す。バランス的にこの3曲から溢れ出る軽やかさとユーフォリアはこれまで以上に鮮烈であり、ただ、「箱庭」の中での構造内でもがいている印象も受けるかもしれない。


 それはつまり、総ての五感を融かす壮大な何かがある訳ではなく、フェスのような場所でも基本は独りの集まりであることで、より大多数の現場の夢想と連結できる想像力を刺激している節があり、だから、「Festival」と「ファインデイ」に挟まれ、「1人のワルツ」という曲が浸透圧を保つ。カントリーのような晴れやかな曲調に「孤独」をなぞるリリックを武井があっけらかんと歌う。


《友達もいない 恋人もいない 勉強は嫌い 運動出来ない 何もない僕の横で今日も音だけ鳴ってた》

(「1人のワルツ」)


 音だけが鳴っていた、という場所からほんのわずか根源的な不安をひととき寝かせて、ハンドクラップとシンガロングを求めようとする姿勢とは、どうにもイロニカルだが、だからこそ、世に溢れる「絶対負」を反転せしめる。


 こんな荒業をできるバンドはなかなかいないが、曲が鳴りやんだ途端、また、すぐに「日常」に引き戻されるという意味でも、真っ当なハレとケの感覚を備えていると思う。過剰にも思えるコーラス・ワークと煌びやかなメロディー、アレンジメント、出会った瞬間に眩い光を醸される曲の多彩な表情。


《ごらん もともと傾いたワールドなんだ》

(「Festival」)


 傾いた道を昇るのも、くだるのも各々の責務なのだとは思う。均質化されてゆく価値観の細部へ希いを託そうとする、ここでの祭祀性は内在的な「孤」を掬い上げられる人も多くいるだろう。



(松浦達)

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