さめざめ『さめざめ問題集』(Victor)

|
さめざめ.jpg

 ネット上でまとめサイトが増えたのもあり、個々人の凄まじいツイート的な感想や情念のようなものさえ、ツリー状に束ね上げられているのを見ると、中りもするものの、基本、衣食住、健康、そして、「性」を巡る周囲での当たり前と思える要因が、人気が高く見受けられる


 そんな中、女子会、女性は強くなった、メス化する社会などと多くの言葉も往来しながら、なぜかそういった際に私は、パスクァーレ・フェスタ・カンパーレが監督した、1967年のイタリア映画『女性上位時代』を想い出す。


 その映画内容の女性「上位」というのは旧弊的な縦割のマチズモ的な男性社会の縛りの中で自由を手に入れ、性的/社会地位的上位性を獲得するという「含み」を持ったもので、そこで「隠匿」されていたのは、"フェミニズムの波"ではなく、おそらく、カトリーヌ・スパークを通して可視化できた幻像なのかもしれず、社会的性をジェンダーと置き、また、生物的性をそのままでセックスと置換し、そこの結び目をどうするのか、という討議はこの2013年でも曖昧になってくるサブテクストが表出する。


 さめざめ、こと主体の笛田さおりの表現はポップながらも少し直截的であるがゆえに、多くの誤謬も批判も同調も巻き起こしながら、こういった一億総評論家的に、ネット、SNSで繋がってしまう趨勢で、何らかのスラングで語られてしまう磁場があったのも否めなかった。


 メロディーからアレンジメントは、とても歌謡的で古き良きJ-POP文法に沿った、遍く郊外型書店でも有線放送でも耐久可能な響きを持った拓かれ方を持っている。また、彼女自身の声もメジャー・デビューというのと無関係ではないかもしれないが、それにしても、先ごろ4月だったか、深夜に、京都市内の寂れた古書店に、ふと日々の疲弊と紛れ込んだときに流れてきた「愛とか夢とか恋とかSEXとか」は、反則のように心の機微を攫ったのを想い出す、とても、デッドエンドな情景。


《愛とか夢とか恋とかSEXとか 嘘とかずるとか頑張る意味とか もういやだ もう疲れた もう誰も信じない 愛とは夢とは恋とはSEXとは あたしにとってなんだろう》

(「愛とか夢とか恋とかSEXとか」)


 とても、大きな、誤解を生みかねない言葉が切々と響きながら、店内に明らかに倦怠を持て余したような上下ジャージの女の子や居場所を探しあぐねているような少年が居たりするのは道理で、自身はさめざめが「性」に向き合い、そこで倦怠を誠実に記すことに「生」を感じもした。


 このたび、『さめざめ問題集』という過去の曲群などをコンパイルした名刺的ベスト・アルバムがメジャーからリリースされるにあたり、より多くの人たちに、さめざめの存在は伝わることになるのか、ならないのか、また、彼女はメディアで子宮頸がんを告白するなど混乱した状況が既にある(筆者注:子宮頸がんに関しては早期発見であり、手術も無事に終えているとのこと)。


 「コンドームをつけないこの勇気を愛してよ」「ズボンのチャック」などのタイトル自体が何らかの好/悪を既に分けてしまいそうだが、笛田自身がさめざめを巡るフレーズに対してインタビュー形式で意味を応える配信用の付録「さめざめ単語帳」では、至極真っ当で誠実な感性が垣間伺える。


 「愛とか夢とか恋とかSEXとか」は、渋谷駅の東横線の乗り換え改札口を渡ったときのいちゃつく安物ドラマを"している"カップルに舌打ちをしながらも、満員電車内で「自分はこのままでいいのだろうか」という嫉妬、被害妄想、孤独、自省が結実した上で、曲になると言っており、いわゆる、避妊具ながら、最近はドラッグ・ストアやコンビニでも簡易に並んでしまっているコンドームというものに関して、"大人になった日常"の延長線上にあるようなものだという言及をする。また、旧来的な言葉、ズボンのチャックにしても、秘匿の前に立つ精神的禁忌性の快楽に置き換えるようなニュアンスを含む。


 亡き澁澤龍彦は、今や認知も為され、名が残った学者・作家だが、彼はサドをアカデミックに取り上げると、アカデミズムからは村八分を受けた。『悪徳の栄え』にしてもそうなのだろうが、なにかしら、日常にもっともらしく明るく埋め込まれているスローガンどおり、世が廻ることはあったのならば、非常に退屈なものになってしまうだろう。ジョルジュ・バタイユを主にして「エロティシズムの社会化」という意味がサドを経由し、はかられたこともあった。


 例えば、サドは『悪徳の栄え』内で、「悪徳こそ人間に固有なもの、それにくらべれば、美徳は利己主義のファルスのようなものだ」なんてことを記している。エゴ、本能と社会性の拮抗は、つねに不自由に制約条件だけを仮定している。日曜日の昼間から新婚の方が出てくる長寿TV番組では、朗らかに「性」が語られるが、つまり、ヒトという生物の因業とはそんな高度化・抽象化したところで、プリミティヴに反転し、それを窃視的に各々が「耳打ちし合う」ことは際立っている。


 後次にて付加される"社会的な性"、と、そこを内側から再定義、蹴破る生々しい性的衝動。それが少しの弾みでは、犯罪が絡むようなことになるのかもしれず、永遠に解決しないような煩わしささえも用意するとしても、さめざめは「みんなおバカさん」という曲で、自身の執着心や孤独に振り回されながら、逆切れのようなテンションで、攻撃性でみんなに対して"おバカさん"と言う。


 但し、「バカばっか」と伝えるがしかし、伝わらないのは、「そういうあなたがバカでしょう」っていうループが郵便性を帯びてくるからだ。


 敷衍するに、「あなたがバカだと思います。」という伝達を、宛先を指定して送ったとしても、届かない。もし届いていたとしても、開封前に漂流してしまうという不完全な構造がいびつに現前する。その構造内で、ただし、誤配的に、宛先じゃない複数的な「幽霊」へ向かってしまう可能性が出てきてしまうのは常ゆえに、だから、さめざめが多少、露骨で直截的な言葉で性的な表象をしても、メタではなく、ベタ認知で「イタさ」を嗤う人たちが居るのだろう。


 さめざめは、とても「真っ当」で「生真面目すぎる」と想ってしまう自身の感性もある。何気なく、ファッション・ホテルに無機的に枕元に置かれている避妊具、ポップ・アップの形式で、広告で浮かんでくる婚活の名の下の綺麗な方々、また、真面目そうな男性の方々、年収や条件の書かれたもの、街を歩いていると、同じ時間に、同じ場所で出会うなんとなく綺麗な女性の方、そして、"I Will Die For You..." 思うに、恋人を喪うことが世界の破局を迎えるかもしれないといういつかの"セカイ系"という概念は、今は少しいびつな文脈が置換され、双方に悲劇の登場人物であるかのような結末をときに過程として備えること。


 「あたしがいなくなれば」という曲では「自己」の喪失、全否定、嘆きをディプレッシヴに突き詰める。身体、心、言葉、あなたという他者を経て、再び「孤」に還らざるを得ない人間の業といいましょうか、そこで、ただ、「ふざけるなよ」という叫びが堰を切ったように発せられるのはひとつのクライマックスだろう。


《ふざけるなよ》


 それは、いつかには通じ合っていたかもしれない「幽霊」への手紙だとしたら、もしかしたら、彼女が投函した手紙の宛先は指定されていなかったのだろうか。同性同士の嫉妬や悪意を晒し、軽やかに語呂も合わせて歌うような曲でも、情念は迸りながら、着地点は切なく残響する。


《あたしがいなくなって あなたは哀しむかな やっと あたしのこと 愛してくれるかな あたしは馬鹿だよ 信じていたんだよ》

(「あたしがいなくなれば」)


 「不在たる性」へ向けた、絶対的で一方的な信頼。女々しいという言葉が死語になりつつある瀬にて、「あたし」はあなたであり、私なのかもしれず、女性ではない主語なのかしれないディレンマ。


 悪徳は、健康的なもっともらしい倫理を剥ぐために機能するのか、ただ、剥がれたあとも「仮面」があるのが今という複層的な時代にて、多重に「ポーズ」が装われてしまう中で、何が真実か、事実かさえも藪の中に掠れる。


 "さめざめ"というネーミングもだから、如何にもと思ってしまい、孤独を誤魔化しがちな今において、「問題集」を提示する姿勢はとても果敢な錯綜という気がする。「生」とは「性」や「業」が絡み合いながら、なんらかの虚しい夜があけたときに、朝が来て、またなにも変わらず残り香だけが、漂流させてしまう。


 この一歩目はまだ、多くの先人たちの「性」から「生」の間を縫う翻訳作業の途中過程に過ぎない。



(松浦達)

retweet