星野源「ギャグ」(Victor)

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 ここまで短期間で劇的に変わったアーティストも日本では稀有だと思う。以前に、「くだらないの中に」というシングルのレヴューを書いたのは2年ほど前で、ただ、この作品後、奇しくも、天変地異や多くの艱難が世を攫った。だからこそ、なのかもしれない、誰も視界に映る当たり前を「当たり前」と捉え直す行為自体が貴重になり、くだらなさの中で笑うように生きることも、君が笑うことも、魔法がないと不便なことも、絡み合う二人の匂いを取り戻す歳月が流れてしまったとも思える。


 俳優や文筆家など多彩な面を持っている星野源だが、歌手としては、2011年は前述の「くだらないの中に」、そして、『エピソード』というセカンド・アルバムでの着実な評価も受けながら、地道な足取りを崩さない歩みを進めていき、存在感を確実に強めた。一気に巷間にアピールした分岐になったのは、2012年のストリングスが大胆に取り入れられた華やかなポップ・ソング「夢の外へ」だろう。CMソングとしてパワー・スピンされ、映像でも彼の姿を観ることが増え、また、サービス精神過剰と思えるDVDなどでのパフォーマンスも含めて、ひとつの枠、好事家の中での共犯性を越えて、多くのリスナー、アーティストからの支持を受けるようになり、一気呵成に、ワーカホリック気味な彼は加速してゆくことになったが、その飛躍の年を締めくくるシングル「知らない」では彼岸性と、物寂しさも極まっていたような気もする。


 その彼岸性には穏やかに濃厚な死の気配も含み、徹底的に自分自身と向き合うことで、内奥へ潜り、その他大勢を「景色」にさえかすめてしまう要素も包含されていた。個人的に、その後、くも膜下出血で倒れたという事実もなかなか嚥下できず、周囲が過大に結びつける"星野源"像はきっとなんらかのイメージの残映や断片なのではないか、という感覚も持っていたのが正直なところだ。病から復帰するポップ・スターとしてのイコン性のナラティヴと、音楽的な充実が鮮やかに重なった、先ごろのサード・アルバム『Stranger』も素晴らしかったが、このシングル「ギャグ」に垣間見える明るい暗がり、行間の切なさ、道化的なメタファーに心が動かされるものがあった。


 スイング感が心地良いポップネスを帯び、ホンキートンク的なピアノが撥ね、ハンドクラップが合う表題曲。ホンキートンクといえば、ラグタイムを崩したピアノ奏法で、アメリカの大衆的なバーで愛されたスタイルであり、そう考えると、"大衆音楽のために"半ば殉教しかけていた彼は、"大衆のための"音楽を楽しんでやることに帰一したような感触がある。ゆえに、重々しく対峙するよりも、軽快で賑やかな雑踏、車のカーステレオ、FMなどが似合うような雰囲気も表前し、多くの人が行き交う狭間に衣擦れのように馴染む、そんな色みがある。おそらく、ここ2年ほどの星野源に求めていた「何か」が欠けていると感じる人もいるかもしれないし、もっと彼に「意味」を求めたい人には肩透かしを受けるかもしれない。それでも、この「ギャグ」はとても哲学的で、今の温度が備わっている感覚をおぼえる。


 《ギャグの隙間に 本当の事を 祈るみたいに隠して》

 《誰かが作る 偽の心を 腹の底から信じて》

 (「ギャグ」、以下同)


 ギャグの隙間の「本当」を隠し、偽の心を信じようとする所業。フラットな文脈ならば、逆説的だと両義は捉えられるが、彼の場合は、本当/嘘の安易な二分線を越えて、それっぽい紛いものの真実ならば、嘘に積極的に騙されてみよう(信じてみよう)とする。


 このシングルのクレジットの、"ありがとう!"の枠の一番、最初に細野晴臣氏の名前が刻印されているが、自身の著書『働く男』でも敬愛を示しているのは彼の音楽性や佇まいを見ていると、自ずと浮かぶ存在かもしれない。"僕にとって最も神に近い、大好きな普通の人"という形容を使って、彼は細野氏を讃えていたものの、今、彼こそが「普通」という、在り得ない概念の結び目を日常を通して体現する一人でもある、と思えてしまう。ゆえに、普通である存在が"Stranger(異邦人)"としてのそれを皮肉にも示唆してしまうのかもしれない。シンプルで滋味深いながらも、ヘヴィーな後味が残る2曲目の「ダスト」と併せ、このシングルが照らす死生観と極北的な視点、他愛のない描写が綯交ぜになった何気ない音楽の肌触りは、日常で見落としがちな大切な何かも視える。


 《救われた記憶も 聞いたことのない声も 胸の中に響く また逢えるように》


 ポップ・ソングは遠く離れたどこかの名も知れぬ誰かと誰か、と偶然にも繋げてしまう、そういうマジカルな瞬間がここにもあると思う。



(松浦達)

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