うみのて『IN RAINBOW TOKYO』(Deckrec / UK.Project)

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 ときに音楽は、送り手の意思とは関係ないところで社会的状況とシンクロしながら、時代の空気を鮮やかに描写してしまうことがある。そして聴き手は、その鮮やかな描写に感情移入できる余白を見つけ、自分が生きる日常の風景と同一化させていく。こうした経験は、それなりにたくさんの音楽を聴いていれば、何度かあるはずだ。少なくとも、ひとりの生活者として音楽にコミットし、日常における様々な要素が音楽になると考えているあなたなら。笹口騒音ハーモニカを中心に結成されたうみのてのアルバム『IN RAINBOW TOKYO』には、そんなあなた、つまり、生活者の視点から歌われたポップ・ソングが詰まっている。


 とはいえ本作は、去年の12月にリリースされた「もはや平和ではない EP」のジャケットみたいに、テレビの向こう側として見た風景も歌われており、それゆえ、笹口騒音ハーモニカの主観は、実を言うと薄い。むしろ、叫ぶような歌声からは想像できない、冷徹なまでの客観的視点を感じる。それこそ、本作と同日に発売された、笹口騒音ハーモニカのファースト・フル・ヴォリューム・シングル、「ロックンロール(笑)」の(笑)側の視点である。いわば本作は、叫びをあげる熱さと、叫ぶ者を見つめる冷静さが混在した歪なアルバムなのだ。


 しかし、(笑)のシニシズムが勝っているのかといえば、そうではない。わかりやすいところだと、本作のタイトルである『IN RAINBOW TOKYO』。お気づきの方もいるだろうが、このタイトルはレディオヘッドの『In Rainbows』を引用したもの(本作には「ATOMS FOR PEACE」なんて曲もある!)。さらに「WORDS KILL PEOPLE(COTODAMA THE KILLER)」は、フィル・スペクターのウォール・オブ・サウンドを彷彿させる。言ってしまえば、本作におけるうみのては、過去の音楽に対する憧れを泥臭く発露しているように見える。


 鋭利な言葉で紡がれている歌詞も、異なる視点がカオティックに共立したものが多い。例えば、「WORDS KILL PEOPLE(COTODAMA THE KILLER)」(またの出番で申し訳ないけど、本当に名曲なのよこれ)。この曲には、傍観者の視点を描いた、《言葉が人を殺したよ 俺はそれをそれを見たんだ》という一節が登場する。だが同時に、《俺は今日人を殺したよ 頭の中で人をぶっ殺したよ》といった、殺す側の視点も描かれている。また、本作の歌詞のほとんどは、インターネットが普及し、人との関わり方が変化した現状を浮かびあがらせている。聴き手に最短距離で届くことを意識した言葉選びのセンスも秀逸だ。


 となると、政治的思想や哲学が根底にあるんだろうと推察してしまうのが心情というもの。しかし、笹口騒音ハーモニカいわく、「僕が言いたいことってあまりないと思うんです。」(《OTOTOY》のインタヴューより引用)だそうだ。ありゃありゃ。まあ、だからこそ、冒頭で「ときに音楽は、送り手の意図とは関係ないところで」と書いたのだけど。いや、もしかすると、こうしてあれこれ書かせることが狙いなのかもしれない。だとしたら、今頃このレヴューを読んでほくそ笑んでいるのだろうか。のらりくらりとかわすような態度を笹口騒音ハーモニカが貫くもんだから、邪推が止まらない。


 ただ、それでもふたつ、本作について確実に言えることがある。それは、本作が問題提議としての機能を果たしていること。そして、2008年の秋葉原無差別殺傷事件に触発され書かれた「もはや平和ではない」が、2013年の"今"でもしっかり響くということだ。東北地方太平洋沖地震が起きた、2011年3月11日以前からあった七尾旅人の「リトルメロディ」が、2011年3月11日以降にその意味を変質させたように、「もはや平和ではない」もまた、誰もが言葉だけで人を《高層ビルの屋上から》(「WORDS KILL PEOPLE(COTODAMA THE KILLER)」)突き落とせる現在において歌われることで、意味を変質させたのだと思う。こうした変質を良しとしない者もいるだろうが、音楽とはそういうものだ。聴かれる場所、時代、状況によって新たな解釈がなされ、その音楽が内包する意味も変化していく。音楽はそうやって常に塗りかえられてきたし、だからこそ、これまで数多くの音楽が鳴らされ、それらに対してロマンを抱き、愛する者がいつの時代も存在するのだろう。そして筆者は、これが音楽の魅力であり、魔法だと考える。そういった意味で本作は、音楽の魔法を宿したアルバムだと言えるのだ。



(近藤真弥)

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