DAVID GRUBBS『The Plain Where The Palace Stood』(Drag City / P-Vine)

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 「かつて宮殿が建っていた平原」、そう名付けられたデイヴィッド・グラブスの新譜をくり返し聴いている。僕が彼の名前を知ったのは、やはりガスター・デル・ソルでの活動を通じてだった。初めて聴いたアルバムは『カモフルーア』。シカゴ音響派だとかポスト・ロックと呼ばれるジャンル/ムーヴメントが注目を集め始めていた90年代後半のことだ。ジョン・マッケンタイアが率いるトータスやシー・アンド・ケイク、ジム・オルークのソロ・アルバムや数々のプロデュース・ワークなどなど...。現代音楽やジャズ的なアプローチを規範とした緻密なサウンド・プロダクションと知的な佇まい。静謐さと過剰さの巧みなバランス感覚。そして、周知のとおりデイヴィッド・グラブスとジョン・マッケンタイアの源流にはハードコア・パンク・バンド、バストロがあった。それは、僕にとって70年代後半のパンクからポスト・パンクへの流れをリアル・タイムで体験しているような感じだった。あからさまに何かの"アンチ"になっていないところが00年代に移り変わる頃の気分にぴったりで、「音楽はまだまだ進化するんだな!」ってワクワクさせられた。


 ガスター・デル・ソルの解散からソロになっても、デイヴィッド・グラブスには一貫したスタイルがある。それは彼のヴォーカリストとしての歌ごころ。僕が彼の音楽を大好きになった理由でもある。「音響派」って括られるバンドやミュージシャンの多くがインストをメインにしているけれど、デイヴィッド・グラブスは決して歌をあきらめない。「実験性」という名目で、声やメロディをサウンドのひとつのパーツとして扱うこともない。しかも、その歌声は朴訥だとさえ思えて、ちっともクールじゃない。ヴォーカリストとしては、技巧的ではなくて情緒的。けれどもそれが(今ではちょっと古びてしまった)「音響派」というタームからもはみ出して、個性と普遍性を両立させている。聴くたびに色彩を変えるサウンドと歌とのコントラストは、ソロとして6枚目となるこのアルバムでも鮮やかだ。


 実験的なサウンドに普遍的な歌を重ね合わせるというアプローチ。「実験的」って言葉は敷居が高くて、聴き手を限定してしまうことがあるのも事実。「革新的」やら「冒険的」って言い換えても同じこと。けれども、そこに誰の耳にも入り込みやすい「歌」を重ねてみたらどうなるだろう? 実はそれこそが二重の意味で実験的なのかもしれない。ポピュラリティを得ることもできるだろうし、音楽的な表現力の可能性もグンと広がるはず。たとえば、ジェームズ・ブレイクが1stアルバムで静かに歌い始めたときのように。ダンス・ミュージック・シーンのド真ん中を突っ走るアンダーワールドでも言葉を連射していたカール・ハイドが、ソロ・アルバムで儚いメロディを聴かせてくれたように。デイヴィッド・グラブスとはキャリアもジャンルも違うけれども、僕はこのふたりを思い出したりもした。


 "失われた何か"を連想させるタイトルどおり、アルバムにはゆったりと時が流れている。決して懐古的でも、悲観的でもないところがカッコいい。ヴォーカルが入っている4曲はどれもポップで、ちょっと笑えるし。「I Started To Live When My Barber Died(僕の床屋が死んだとき 僕の人生は始まった)」だとか「The Hesitation Waltz(ためらいワルツ)」だとか、なんのことやら! もちろん、サウンドも相変わらず最高だ。シンプルなアコースティック・サウンドから、人懐っこいメロディ、その出自を彷彿とさせるハードコア・ノイズや不穏なドローンまでが自由に飛び交う。「かつて宮殿が建っていた平原」では、デイヴィッド・グラブス自身の歩み、そしてポスト・ロックという音楽の過去と現在と未来が交差しているかのよう。ジャンルを飛び越え、歌い続けるデイヴィッド・グラブスの「実験」音楽は、今でも僕たちの既成概念を揺さぶる。それはとても心地良い刺激だ。このアルバムが多くの音楽好きの耳に届きますように!



(犬飼一郎)

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