CAETANO VELOSO『Abracaco』(Universal)

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 カエターノ・ヴェローゾのこの数年のオリジナル作を知っている方ならば、この流れも或る程度は想像できたことだろうが、ここまでの境地に至ったのには驚きを持ったとも思う。


 トロピカリズモ、MPBのレジェンドの冠詞を抜け、記憶に新しい05年の来日公演ではオリジナル曲を無論、演奏しながらも、『A Foreign Sound』におけるアメリカン・ポップ・トラディショナル・カヴァー作に沿い、優美にパフォーマンスしてみる様が印象的だった。当該作品でも、コール・ポーター、スティーヴィー・ワンダーからニルヴァーナまで幅広い選曲をあの年老いて、より艶やかさを増した声で歌われると、まったく、印象が変わったように受け止めることができた。


 カエターノといえば、即応的な時代背景と奇妙なシンクをした明確な作品を打ち出してきており、そのバイオグラフィーのみならず、一つの作品から当時の情景が浮かび上がる。ボサ・ノヴァのクラシックと何度もリイシューされ続けるガル・コスタとの1967年の『Domingo』はおそらく、遍くどこかのカフェで時間を潰しているときに必ず一度は出逢う音だろうとも思う。軍事政権たるブラジルからの亡命、ロンドンで繊細に紡がれた1971年の『In London』は必然的にといおうか、全英語詩になっており、コンパクトながらにじみ出る抒情性が胸を打つ。自身を含む新しいリスナーでは、90年代以降のワールド・ミュージックの再発掘、リヴァイバルの中での1997年の『Livro』での成熟と前衛性を兼ね揃えた様に魅かれたというのも多いかもしれない。


 例えば、ジョアン・ジルベルトの初来日公演の際にしてもそうだったが、日本の地球の裏側ともいえる音楽がこうして一種のファッション的にではなく、しっかりシンクロしたのはその音楽性の豊潤さにあるのではないか、という気がする。どこか遠い国の音楽、というイメージだけでは気分としてのエキゾチズムをなぞるだけで、おそらく、感性は表層を往ってしまう。


 しかし、オレンジ・ペコー、キリンジの堀込高樹、コーネリアス、坂本美雨、畠山美由紀など、05年の来日に合わせて、日本のアーティストが選曲したカエターノのスペシャル・コンピレーション『Caetano Lovers』に並ぶ名前とコメントには胸が躍る。その中でも、オノ・セイゲンが1978年の滋味溢れる『MUITO』から「Sampa」をピックアップし、寄せた文章は意味深いものだ。以下、一部、引用する。


 《言葉は記号、象徴でありコミュニケーションの道具であるが、言語が異なると通じない。しかしそれがいったん声、音として発音された時点で、相手にはその記号以上の意識、心が伝わる。身体表現として人間の無意識領域まで深く伝わる。これが歌で、音楽である。心が伝わる。カエターノの声はこれを証明している。》


 彼の「声」は中性的でセクシュアルで蠱惑的とも言われる。それがここ最近は、息子のモレーノ・ヴェローゾ、ギターのペドロ・サー、ベース・キーボードのヒカルド・ヂ・アス・ゴメス、ドラムスのマルセロ・カラードのセー・バンド(バンダ・セー)としての編成になってからは、シンプルなバンド・サウンドに彼の円熟した声と抽象的で難解な詩が乗るというオルタナティヴな航行が続いており、06年の『Cê』、09年の『Zii E Zie』、ライブ盤を経ての延長線上に、この『Abracaco』があるともいえるが、ジャケット・ワークから少し違うと感じる人も多いと察する。


 上半身裸身のカエターノを取り囲む、多くの手。そもそも、"ABRAÇAÇO(アブラサッソ)"も抱擁を意味する造語だ。11曲50分ほど、装飾は決して過多ではないながらも、セー・バンドのアンサンブルはより深化し、モレーノとペドロのプロデュース・ワークは単調になりがちなバンド・サウンドに奥行きをもたらすことに成功している。


 さらに特徴的になったのは詩だろうか。2012年8月で70歳を迎えたカエターノが紡ぐ両義性、隠喩、換喩、アナグラムには裏を読むにしても、余りある。1曲目の「A Bossa Nova É Foda」にしても、ボサ・ノヴァを巡るシンプルな唄かといえば、際どいラインを行き交う。例えば、《E tanto faz se o bar do judeu romântico de Minnesota》というフレーズが出てくる。ミネソタのロマンティストな詩人、つまり、具体的にはボブ・ディランのことであったり、後半にはミノタウロス、ジュニオル・シガーノ、ジョゼ・アルド、リオット・マシーダなどの名も並ぶ。それが技巧的でなく、耳にダイレクトに届くところが今作の面白さかもしれない。3曲目の「Estou Triste」では、抑制された旋律の中で、悲しみそのものを小声で歌う。


 《Estou triste tão triste E o lugar mais frio do rio é o meu quarto(筆者拙訳:悲しくて仕方がない きっとこのリオで最も寒い場所は僕の部屋だね)》


 一転、軽やかになる4曲目も"法の支配"を巡るリリックが簡素に多重性を持ち、綴られる。6曲目の8分を越える大作「Um Comunista」では、バイーア出身の革命家カルロス・マリゲーラを軸に、ひとつの物語を読むように、じわじわと音風景にリリシズムが混成する。光と闇、恐怖、死、ゲリラ、シビアな現実、長い時間を生きてきた彼のアタッチメントする領域はときに冷酷でさえある。そういった全体像に8曲目のタイトル(「Vinco」)のように「折り目」を入れられるバランス感覚が美しく、ただ、この彼岸性とロマンティシズムと押し迫ったリアリズムの拮抗を想い出すと、個人的にふと、奇遇にもボブ・ディランの『Tempest』を彷彿してしまったのも否めない。老境に差し掛かり、過去を振り返りながらも、まだ少しだけ前を視ている、視ようとしているときの淵には不思議なことに、枯山水の庭園に感じる美が静かによぎるような気もするからだ。


 キャッチーでも華々しい作品でもなく、ポスト・ロック的なアレンジメントが功を奏しているとも言い難い部分はあるが、セー・バンド以降では特筆して、カエターノ自身の「個(弧独)」が滲む。そして、そのセー・バンド三部作の完結とも言われているが、おそらく、ここを経てから、新しい地平に向かうときにきっと大きな意味を持つと思う。



(松浦達)

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