April 2013アーカイブ

2013年4月25日

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2013年4月25日更新分レヴューです。

SLAVA『Raw Solutions』
2013年4月25日 更新
The Selection of DE DE MOUSE Favorites performed by 六弦倶楽部 with Farah a.k.a. RF『Vol.1』
2013年4月25日 更新
VARIOUS ARTISTS『InFine By JMJ』
2013年4月25日 更新
CORKY "TRAXMAN" STRONG「K Town Born / Holy City Raised」
2013年4月25日 更新

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音楽配信サイトオトトイ傘下TV♭(フラット)で絶賛放送中、テレヴィジョン・クッキーシーン。「最新のものと昔のものを適当に混ぜつつ、時代を超えていい曲(いいミュージック・ヴィデオ)をがんがんかけていく!」というのが基本コンセプトです。


全10曲程度で合計35~55分くらい(昔のLP1枚分くらい)のセット・リストが毎週木曜日22時に更新され、時間枠いっぱいに何度もリピート・ストリーミング放送中!


木曜22時からの初回放送時、最初にセットリストが一巡するくらいまで、今回のセレクター近藤真弥がツイッターの個人アカウントから軽く(?)曲紹介をおこなう予定です。万が一、なにか予定が入ってしまったら、できないかもしれませんが(その場合は、申し訳ありません)。


4月24日(木)~5月1日(水)に放送される第24弾は、セレクター近藤によれば「伊藤さんが欧米の音楽ばかり選ぶので(笑)、日本を中心としたアジアのポップ・ミュージックを選びました」とのことです!


daokoに始まり、カナタトクラスで終わる全10曲。ほとんどが昨年から今年にかけての新しいヴィデオ。「今の最先端」を知るのに最適かも? 初回放送時はミーティングが入るかもなので、ぼく(伊藤)はそのとき見れないかもですが、 挫・人間による「ちんちん大臣」なんて曲もあって、個人的にむちゃくちゃ見たい...。なんとか再放送をば...(うう、近藤くんの解説も見たいなあ...:笑)。


ちなみに、ぼくが欧米の音楽ばっかりかけるのは、なんというか、そういうリスニング習慣になってるというだけのこと...。ぼくはアジア人、それがすべての基本だと思ってますし、レイシズムには絶対に「反対の賛成、賛成の反対」(by バカボンのパパ)!


放送日時は以下のとおり。普段はリピート放送も含み1週間なんですが、今回は特別に2週間の放送となります。(←この部分、コピー/ペースト・ミスでした...。すみません!)


4/25(木)22:00-24:00 ※初回放送

4/26(金)16:00-18:00 ※再放送(以下同)

4/27(土)18:00-20:00

4/28(日)12:00-14:00

4/29(月)22:00-24:00

4/30(火)12:00-14:00

5/1(水)14:00-16:00


なお、第25弾の初回放送は5月2日(木)22時スタート。


よろしければ、是非!


2013年4月24日15時05分(HI)

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ULTRADEMON『Seapunk』.jpg

 ここ1~2年のあいだでよく見かけるようになった"シーパンク"というジャンルだが、特定の音楽を指す言葉ではなく、ファッションなども含めたムーヴメントを表す総称のように思える。


 音楽的にはレイヴ・ミュージックのハイな部分を抽出し、それを土台にダブステップやLAビート・ミュージック、それから80年代のオールド・スクール・エレクトロといった要素をぶちこんだような印象を受ける。そういえば、友人が「Seihoの『MERCURY』はシーパンク」と言っていたが、筆者からするとシーパンクは、ラスティーハドソン・モホークからの影響を多分に含んでいるように聞こえる。異論はあるかもしれないが、筆者がシーパンクを聴いて真っ先に思い浮かべたのは、いま挙げたふたりのアーティストである。


 ヴィジュアル面では初期《Transonic》のコンピレーション・アルバムのジャケット(これこれなど)を想起させるデザインが多く、いわゆる90年代的なセンスを醸しだしている。あえてチープさを強調したCGからは、そのチープさを面白がっている節も見受けられるが、秀逸なデザインになるとそれがスタイリッシュに見えるのだからびっくり仰天。古いか新しいかではなく、面白いか面白くないかという判断基準を重視するポスト・インターネット世代が中心のムーヴメントだからこそ為せる業なのだろう。


 ここまで書いてきたことから推察すれば、シーパンクは音楽的にもヴィジュアル的にもあらゆる要素や文化を折衷させることが前提としてある。これと類似する前提を持っていたムーヴメントといえば、90年代末期から2000年代始めに隆盛を極めたエレクトロクラッシュを思いださせるが、エレクトロクラッシュは意識的にファッション性を打ちだし、その結果として、フォトグラファーや俳優までをもサポート・メンバーに迎えたフィッシャースプーナーのような集団が現れたりもした。こうした流れは、音楽ジャーナリストのポール・モーリーをスポークスマンとしてメンバーに迎えいれたアート・オブ・ノイズにまで遡れるかもしれない。


 しかし、時代の流れや状況に促される形で発生した側面もあるシーパンクと意識的だったエレクトロクラッシュを接続し、そこからアート・オブ・ノイズにまで遡るのは少々無理がある。意識的だったエレクトロクラッシュと、環境に規定された無意識をベースとするシーパンクは断絶しているのでないか? 無意識と意識的の差はかなりデカイと思うし、無意識がゆえの偶発性を持ち、それが従来の文脈や歴史からの逸脱に繋がっているのがシーパンクの面白いところだ。


 その逸脱に寄与した重要な要素がネットであるということに異論はないと思う。事実、シーパンクの多くは、サウンドクラウドやバンドキャンプといったデジタル・リリースが主流だ。だがついに、初のオフィシャルCDがリリースされた。それが本作である。


 本作を作りあげたのは、ウルトラデーモンことアルバート・レッドワイン。シーパンクの第一人者とされていて、過去にはなんとジョセフィーヌ・コレクティヴというバンドのキーボーディストとして《Warner》と契約していたそうだ。しかしわずか18歳で独立し、ファイアー・フォー・エフェクト名義を経て、現在のウルトラデーモンに改名してからは、シーパンクのイメージやサウンドを形作り今に至っている。


 そのアルバートが上梓した本作は、様々な音楽的要素が入り乱れたものとなっている。1曲目の「Chatroom With Enya」は、TR-808風のドラムが淡々と4つ打ちを刻み、それこそ、初期のティガを想起させるエレクトロクラッシュ風味に仕上がっている。さらには『Epiphanie』期のパラ・ワンに近い雰囲気を漂わせる曲もあり、他にもベース・ミュージック、スクリュー、トラップといった要素も取りこむなど、2000年代以降に登場した音楽を網羅的に吸収したようなサウンドが本作の特徴となっている。言ってしまえば、圧倒的なオリジナリティーを聴き手に刻みこむような作品ではない。


 だからといって、音楽的につまらないとするのは早計だ。そもそも過去の音楽を現在の価値観に沿って解釈すること自体は価値ある行為だし、その行為を通して多様な音楽的要素を折衷させ、それをフレッシュに響かせる才能を持つアルバートはもっと評価されてもいいアーティストだ。さらに言えば、そんなアルバートの才能こそが本作の醍醐味である。


 そう考えると本作は、アティチュードとしてのシーパンクを提示した作品であり、もっと言えば、シーパンクはアティチュードであるというアルバートの主張なのかもしれない。だとすれば、本作の寛容性あふれる雰囲気と奔放な音楽性にも納得がいく。それこそゴルジェのように、自分なりの解釈で多くの人がコミットできるムーヴメントなのだろう。実際シーパンクの周辺では、DSTVVのレヴューでも触れたザイン・カーティスの名を目にすることもある。そういった意味でシーパンクは、ネット以降の状況における新たな文化創造とコミュニティー形成のメカニズムを上手く生かした好例としても興味深い。



(近藤真弥)

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『Bankrupt!』.jpg

 ムック版のクッキーシーンにて彼らの来歴については書いたこともあるが、個人的に、彼らがこれだけの世界的にポピュラリティーを得るバンドになるとは想像していなかった。また、ライヴを観るたびにジャンクで決して演奏は巧いともいえず、フランスらしいスマートさとスノビズムに宿る何かは、かの国のボリス・ヴィアンからセルジュ・ゲンスブール辺りの精神的系譜を思うと、直情径行なところが可視できながら、ただ、憎めない、捻くれ者たちが集ったバンドという印象を拭えずにいた。


 振り返るに、ガレージ・ロック・リヴァイヴァル、またはポスト・ロック、エレクトロニカが求心性を高めている中での00年の『United』における時間感覚が明らかに消失したと思しきプロダクションと、80年代的な煌びやかさ、ゴスペル、アーバン・ポップスまでをもひとつの作品に押し込んだ力技はすぐにシーンに受け入れられたという訳ではなく、日本では特に、タヒチ80辺りのセンスがフランスの音楽のイメージ造成に付与していたのも否めなかった。セカンド『Alphabetical』での、反動としてのやや装飾過多で内省的ともいえる内容、06年のサード『It's Never Been Like That』はベルリンへの渡航を契機に、ヨーロッパ的なものを求めようとし、生身のままのバンド・サウンドながら、音の角は矯められており、品の良さも漂う繊細なロックンロールを提示していた。


 そして、第52回グラミー賞にて最優秀オルタナティヴ・ミュージック・アルバム賞を受賞し、今やフェスでもヘッドライナーをつとめるポジションにもなり、世界中で愛される存在に押し上げた09年の前作『Wolfgang Amadeus Phoenix』。


 さて、そんな中、この約4年振りとなるこの『Bankrupt!』は、何かしら過剰でいびつな、同時代性はほぼ無関係に、成功した同じ轍を踏まない、彼ららしい作品になっているのは流石だといえる。


 前作からすぐにレコーディングに入ったというが、ニューヨーク、ロンドン、イタリア、パリなどバンドは別々の場所で過ごし、インターネット上のやりとりで楽曲をブラッシュ・アップしながら、結果的には2011年の春、カシアスのフィリップ・ズダールとパリに集まり、24ヶ月に及ぶレコーディングの果てに結実した。そのアイデアの断片は輸入盤のデラックス・エディションで聴ける71曲の未発表曲、デモなどを収録した中からも伺えるものの、本編が10曲とコンパクトに絞られることで、支離滅裂になりそうな帰着点の瀬戸際を縫っているのが分かる。


 リードとして発表された1曲目の「Entertainment!」から煌びやかなシンセが「Too Young」を彷彿させたが、それ以上の過度さで展開され、ディスコ・ポップのような華やぎを牽引せしめている。ただ、そのPVが北朝鮮と韓国をモティーフにしたものであったり、歌詞にしても、《What You Want And What You Do To Me / I'll Take The Trouble Let You Have My Mind(君が欲していること、君が僕にすること、君の頭のトラブルを引き受けていくよ》、《I'd Rather Be Alone(ひとりでいる方がましだね)》というフレーズも残るなど、一筋縄でいかない。


 音楽的な部分での影響では80年代に活躍したフランス人のジャクノ(JACNO)をトーマスは挙げているが、全体を通じて、80年代的なサウンド・メイクが際立っている。AORからブルー・アイド・ソウル、ニュー・ウェイヴの濃厚な色に幾重に織り込まれたエレクトロニクス、ズダールらしいアイデアが散見される。


 3曲目の「S.O.S. In A Bel Air」はこれまでの彼らのポップ・エッセンスが凝縮されたような佳曲であり、旧来のファンも喜ぶのではないかと思う。また、クールなバンドという巷間のイメージを逆手に捉えたバウンシーなR&B調の4曲目の「Trying To Be Cool」では、あえて《I'm Just Trying To Be Cool(僕はクールになりたいだけさ)》と歌う。ミニマルで繊細なサウンドスケープが詰めこまれた7分弱のタイトル曲「Bankrupt!」をひとつの分岐として、後半は少しトーンを抑え目にセクシュアルな気配も立ち上がってくる。10曲目の「Oblique City」では疾走感のあるギターポップで鮮やかに幕を引くのも見事だと思う。


 しかし、今、2013年において、この作品と比肩するものが見当たらない、弧然と、ある種、不気味な躁性とカオスが表前化したものになっているのは面白く、同時に、音楽と文学の対位も密に感じさせる。人工性と慣習から逃れるべき言葉と、その言葉を成立せしめる潜在性。アルバム・ジャケットのアンディ・ウォーホールのキャンベル・スープの絵のようなアートワーク。ありふれたもの、看過してしまいそうなものに、もう一度、"秘密"の埋め込みを試行すること。例えば、ドラッカー・ノワール、ブルジョワ、コカ・コーラのロゼッタ・ストーンなど意味深いフレーズが今作内には見受けられるが、彼らなりのイロニーと切実な想いが混濁し、既存の「固定」意味から、聴き手の想像力の「可塑」へ仮託される。


 人気バンドになった今でも、フェニックスとは、時代感覚や周囲の期待を傍目に、オルタナティヴとポップネスを共存させ、自由に自分たちの好きな音楽を追求するバンドなのだと感じさせてくれる1枚だ。



(松浦達)

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mattiola.jpg

 may.eを名乗る女性シンガーソングライターに出会ったのは、サウンドクラウドを徘徊しているときだった。その出会いはほんと偶然なんだけど、心にスルリと入ってくる歌声(ラップをしている曲も最高!)を聴いた瞬間、見事にやられてしまいました。


 オリジナル楽曲はもちろんのこと、ザ・ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの「Stephanie Says」や、マイ・ブラッディー・ヴァレンタインの「When You Sleep」といったカヴァー・ソングにも惹かれた。既存の曲に新たな命を吹きこめる澄んだ歌声は、もっと多くの人に聴かれてほしいと心の底から願っています。


 とはいえ、そんな筆者の願いは本作『Mattiola』をキッカケに叶いそうな気がする。そう思わせるくらいに本作は良盤なのです。


 本作はmay.eにとってのファースト・アルバムにあたるもので、通販で買えるCD盤(現在は申し込みを締め切ったそうです)についてくるmay.e執筆の解説によると、「このアルバムはストーリー仕立て」だそうだ。確かに歌詞を読みすすめていくと、ひとりの女性が抱いた淡い恋心と、それによって生じる苦悩や幸福が鮮明に描写されているのがわかる。届いたCDに同封されていた手紙には、「私の日記のようなもの」と書かれていた。ということは、本作の物語にはmay.eのパーソナルな領域が少なからず反映されているのだろう。それゆえ本作を聴くと、他人の心を覗き見したような気持ちになってしまうのかもしれない。全曲may.eの部屋でレコーディングされ、さらにはiPhoneまで持ちだした宅録環境もそれを助長する。


 音楽的には、リヴァーブを多用したドリーミーなアシッド・フォークだ。ビーチ・ハウスに通じるモダンなドリーム・ポップの要素を感じさせながらも、ティム・バックリィやHarumi(そういえば、Harumiのアルバム『Harumi』をプロデュースしたトム・ウィルソンは、ザ・ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのプロデュースもしている)などがちらつく、いわゆる60年代末から70年代の雰囲気を醸しだしている。このあたりの折衷的センスは今っぼいと思う。


 それから筆者の耳がおかしいと言われることを承知で言えば、本作を聴いて想起した作品のひとつに、トッド・ラングレンの『Runt』がある。1970年にリリースされた『Runt』は、1曲目の「Broke Down And Busted」が耳に入ると、聴き手と作品の距離が一気に縮まる不思議な親密感を持っているが、この親密感が本作にも存在する。音楽性はまったく違うけれど、だからこそ筆者は、本作と『Runt』をダブらせてしまったのかもしれない。



(近藤真弥)




【編集部注】『Mattiola』は《Tanukineiri》のサイトからダウンロードできます。

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DAVID GRUBBS.jpg

 「かつて宮殿が建っていた平原」、そう名付けられたデイヴィッド・グラブスの新譜をくり返し聴いている。僕が彼の名前を知ったのは、やはりガスター・デル・ソルでの活動を通じてだった。初めて聴いたアルバムは『カモフルーア』。シカゴ音響派だとかポスト・ロックと呼ばれるジャンル/ムーヴメントが注目を集め始めていた90年代後半のことだ。ジョン・マッケンタイアが率いるトータスやシー・アンド・ケイク、ジム・オルークのソロ・アルバムや数々のプロデュース・ワークなどなど...。現代音楽やジャズ的なアプローチを規範とした緻密なサウンド・プロダクションと知的な佇まい。静謐さと過剰さの巧みなバランス感覚。そして、周知のとおりデイヴィッド・グラブスとジョン・マッケンタイアの源流にはハードコア・パンク・バンド、バストロがあった。それは、僕にとって70年代後半のパンクからポスト・パンクへの流れをリアル・タイムで体験しているような感じだった。あからさまに何かの"アンチ"になっていないところが00年代に移り変わる頃の気分にぴったりで、「音楽はまだまだ進化するんだな!」ってワクワクさせられた。


 ガスター・デル・ソルの解散からソロになっても、デイヴィッド・グラブスには一貫したスタイルがある。それは彼のヴォーカリストとしての歌ごころ。僕が彼の音楽を大好きになった理由でもある。「音響派」って括られるバンドやミュージシャンの多くがインストをメインにしているけれど、デイヴィッド・グラブスは決して歌をあきらめない。「実験性」という名目で、声やメロディをサウンドのひとつのパーツとして扱うこともない。しかも、その歌声は朴訥だとさえ思えて、ちっともクールじゃない。ヴォーカリストとしては、技巧的ではなくて情緒的。けれどもそれが(今ではちょっと古びてしまった)「音響派」というタームからもはみ出して、個性と普遍性を両立させている。聴くたびに色彩を変えるサウンドと歌とのコントラストは、ソロとして6枚目となるこのアルバムでも鮮やかだ。


 実験的なサウンドに普遍的な歌を重ね合わせるというアプローチ。「実験的」って言葉は敷居が高くて、聴き手を限定してしまうことがあるのも事実。「革新的」やら「冒険的」って言い換えても同じこと。けれども、そこに誰の耳にも入り込みやすい「歌」を重ねてみたらどうなるだろう? 実はそれこそが二重の意味で実験的なのかもしれない。ポピュラリティを得ることもできるだろうし、音楽的な表現力の可能性もグンと広がるはず。たとえば、ジェームズ・ブレイクが1stアルバムで静かに歌い始めたときのように。ダンス・ミュージック・シーンのド真ん中を突っ走るアンダーワールドでも言葉を連射していたカール・ハイドが、ソロ・アルバムで儚いメロディを聴かせてくれたように。デイヴィッド・グラブスとはキャリアもジャンルも違うけれども、僕はこのふたりを思い出したりもした。


 "失われた何か"を連想させるタイトルどおり、アルバムにはゆったりと時が流れている。決して懐古的でも、悲観的でもないところがカッコいい。ヴォーカルが入っている4曲はどれもポップで、ちょっと笑えるし。「I Started To Live When My Barber Died(僕の床屋が死んだとき 僕の人生は始まった)」だとか「The Hesitation Waltz(ためらいワルツ)」だとか、なんのことやら! もちろん、サウンドも相変わらず最高だ。シンプルなアコースティック・サウンドから、人懐っこいメロディ、その出自を彷彿とさせるハードコア・ノイズや不穏なドローンまでが自由に飛び交う。「かつて宮殿が建っていた平原」では、デイヴィッド・グラブス自身の歩み、そしてポスト・ロックという音楽の過去と現在と未来が交差しているかのよう。ジャンルを飛び越え、歌い続けるデイヴィッド・グラブスの「実験」音楽は、今でも僕たちの既成概念を揺さぶる。それはとても心地良い刺激だ。このアルバムが多くの音楽好きの耳に届きますように!



(犬飼一郎)

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先日ここでもお知らせした、歌詞対訳講座「ロックのコトバ」は、4月27日(土)にスタートします。


その講座は、代々木公園の隣にあるオトトイのオフィスでおこなわれるんですが、そのオトトイの編集長でありオルタナティヴ・パンク・バンド、リミテッド・エクスプレス(ハズ・ゴーン?)のリーダーでもある飯田仁一郎と、講師伊藤英嗣による対談が、オトトイ・サイトにアップされました。


http://ototoy.jp/feature/index.php/20130417


この講座に関する詳細が記された以下のURLから(たぶん)開講直前まで、申込を受けつけています。


http://ototoy.jp/school/event/info/81


よろしければ、是非m(_ _)m


2013年4月22日10時22分(HI)

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標題の件、まずはこちらをご参照ください。


歌詞対訳講座について、この場を借り、講師であるぼく(伊藤)自身から、もう少し...。


先日、プライマル・スクリームのニュー・アルバム『More Light』日本盤ブックレットに掲載するための歌詞対訳を、かなり入れこんでやっていました。そのときに(今さらながら)思いだしたことがあります。


アルバム『More Light』には、かなり(言葉本来の意味で)ブルースっぽい部分もある。それに見あってリフレインも多い。黒人音楽としてのブルースは「(ほぼ)同じ歌詞を、何度もくりかえすこと」が重要な要素になってるんですが、以前、尊敬する翻訳者/ライター/ミュージシャンの方(吾妻光良さん)が、こんな内容のことを書かれていました。


「ブルースのリフレインを(英語としては同じであっても)どう変えて日本語化していくかが、歌詞対訳の妙味」みたいな...。ぼくも、まったく賛成です。


もともと、ポップ・ミュージックの歌詞というのは曖昧なもの。英語の歌詞を、英語ネイティヴの人たちが聴いても、意味がとれなかったりするみたい(実際、Song Meaningみたいな英語サイトもあることだし...。というか、多くの「J-Pop」の歌詞のほうが「はっきり」しすぎ。くそだな、まったく...)。


そんな曖昧さをひきうけつつ、どのように日本語化していくか...もしくは、どのように日本語で「意味」をとらえるか追求していく。


それが、この講座の目的です。


ぼくは音楽関係の和英翻訳者/ライターを長年やってきたのですが、とくに前者を担当する場合「自分の『意見』をなるべく付随させず、作者の、できるだけ『生の声』を伝える」ってことをモットーにしてきました。


ただし「英語と日本語の違い」によって、「ひとつの訳に決めるためには、翻訳者のフィルターをとおさざるをえず、それが『意見』となってしまう」こともある...。


しかしながら、ぼくには上記のような姿勢があるだけに、そんな「意見」はなるべく排除する方向でやってきました。


90年代に歌詞対訳を始めたころは、それが(たぶん、わかりづらいってことで?)結構批判されていたりも...(実際、今エゴザーチすると、当時のぼく対訳を批判したサイトが結構うえのほうに出てきて、悔しい...。正直、当時2ちゃんでは、むしろ「伊藤の文章は最悪でくそ。まじ死んでほしいけど、対訳は悪くない。まあ、いいんじゃない?」みたいな意見が多かったように思うんですが...:笑)。


まあ、とにかく、そういった特徴をむしろ活かしつつ、より充実した講座とするため「1期ごとに大きなテーマを決めて」臨むことにしました。今回のテーマは「ヴェルヴェット・アンダーグラウンドが切りひらいた地平」。くわしくは(ふたたび)こちらをご覧ください。


これらを読まれて少しでも興味を持たれた方は、どうかふるってご参加ください。少々お高いですが、お値段に見あったものが、きっとご提供できると思います。


何卒よろしくお願いいたしますm(_ _)m


なお、このコーナーでは、受講者の方に「課題」として出していただいた対訳を発表する...ってことを今までやってたのですが、JASRACのしめつけがより厳しくなっているらしく、それはもう(なんとなく)やめざるをえなくなりました...。


すみませんm(_ _)m


2013年4月11日17時6分(HI)

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マッドエッグ『キコ』.jpg

 音楽を聴いたときの衝撃は、そのままの形をとどめることはない。初めて聴いたときの衝撃を味わおうと、何回も聴いているうちにその衝撃は薄くなり、興奮の度合いも下がっていく。とはいえ、これは決して嘆くことではない。ほとんどの音楽に当てはまることだし、興奮と衝撃を味わった過去の記憶は聴き手のなかに刻まれる。それに、過去の記憶に触れるための導線として繰りかえし聴かれるのだから、やはり"残す"という行為は尊い。


 しかし、ごく稀に、いつの時代、場所、状況で聴いても新鮮な気持ちにさせてくれる音楽も存在する。それはどういう音楽なのか? もちろん人それぞれ異なるが、その音楽は聴き手にとっての大切な宝物として、おそらく死ぬまで鳴りつづける。筆者にとって、マッドエッグの音楽とはそういうものだ。最新作である『Kiko』を聴いて、その思いを強くした。


 前作『Tempera』から約11ヶ月ぶりのアルバムとなる本作は、聴き手が見ている風景をガラリと変えてしまう音が詰まっている。過去の作品群では、フライング・ロータス以降のビート・ミュージックからの影響を感じさせるなど、他の音楽と共振するわかりやすい要素が目立っていた。しかし本作においてマッドエッグは、孤高とも言える境地に達している。ダブステップ、ヒップホップ、ブレイクビーツ、UKガラージなどを徹底的に溶解させ血肉とした音楽性には、他ジャンルと交わることがない孤独感を漂わせながらも、確固たる独自性を獲得した風通しの良さがある。


 だが、何よりも興味深いのは、多彩な音色が内包する豊穣な風景である。これまでもマッドエッグは、懐かしさを抱かせるノスタルジックなアトモスフィアや、先鋭的な音から生じるSF的風景を見せてくれたが、過去から現在、それから未来までをも自由に行き来する本作には、そのすべてがある。音に込められた感情も、喜怒哀楽には到底収まらない多様なものだ。さらに言ってしまえば、音が歌っているようにも聞こえる。こうした作品を作りあげる才能を開花させたマッドエッグは、トラックメイカーというより、シンガーソングライターなのかもしれない。くるくる回せば絵柄が変わる万華鏡のように華やかな本作は、そう思わせるだけの才気が迸っている。それにしても、この才気はどこまで伸びていくのか? それを考えると恐ろしくもあり、楽しみでもある。



(近藤真弥)

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AUFGANG.jpgのサムネール画像

 おそらく、多くの人に待望されていた一枚だとも思う。先ごろの来日公演も記憶に新しい、ピアニストのフランチェスコ・トリスターノ、00年に彼とNYのジュリアード音楽院時代に出会ったラーミ・ハリーフェ。ラーミ・ハリーフェといえば、レバノンの作曲家にしてウード奏者の父、マルセル・ハリーフェとの活動としても有名だが、ピアニストとしての評価も近年、高まっている気鋭の一人。そのラーミの幼馴染みが、フレンチ・エレクトロを代表するユニットたるカシアスに属し、ときにフェニックスでドラムも負うエイメリック・ヴェストリヒ。この三人による2ピアノ、1ドラム形式を取りながら、エレクトロニクスも含め、ダンサブルで肌理細やかなグルーヴを生み出すグループがアウフガングである。05年のバルセロナのソナー・フェスティバルを機に作られたというから、キャリアも8年ほどになる。


 セッション的には三者三様、設計技師のような緻密な感性も溶け込み、まだ固まりきっていない部分があったものの、この『Istiklaliya』は、そういった欠落を十二分に埋め合わせた快作となっている。ブラント・バラウワー・フリックのようなディープ・ミニマル的なトランスをもたらす曲もあれば、ジャズとテクノのクロスオーヴァーに果敢に挑んでいた初期のジャザノヴァのEPに通じる温度から、どことなく、アシッド・ジャズ的なノスタルジーを感じる人もいるかもしれない。


 電子音そのものがオーガニックで粒だっていなく、そこに流麗なピアノの音色が重ねられることで、しなやかに音空間が拡張される。これが《InFine》からリリースされていることも興味深い。思えば、独ミュンヘンの《Compost》がシリーズ・コンピレーション『Future Sound Of Jazz』をリリースしていたとき、当時のオーナーたるマイケル・レインボースは、その際の"ジャズ"とは既存のジャズのスタイルそのものを負っているのとは違い、それはあくまで、ジャズが輝かしかった60、70年代に奮闘していたミュージシャンの気高い精神性を意味すると言っていたが、トリスターノ自身もクラフトワーク、ジャン・ミシェル・ジャールの影響を受け、また、カール・クレイグと組んだ作品を出すなど、テクノ・ミュージックへの薫陶とカヴァー・センスはテクノ界隈でも認められている。それでいながら、ドイツの《Grammophon》という由緒正しい老舗のレーベルから、ブクステフーデ、バッハをヤマハCFXで再解釈した作品を出すという、まさに既存のスタイルを負うのではなく、温故知新、気高い精神性のもとで、歩みを進めている。


 今作は、9曲とゴースト・トラック「Overture」を入れて、55分ほどの自在な音絵巻が繰り広げられる。冒頭の「Kyrie」は、アンダーワールドの02年の『A Hundred Days Off』あたりを彷彿させる柔らかさとバウンシーなムードがフロアやライヴで映えることを既に確約しているとも思える佳曲。ツイン・ピアノがビートを刻むように熱を帯びてゆく次曲の「Balkanik」では、エフェクトの効果もあり、6分弱とは思わせない鮮やかなグルーヴが宿っている。無論、IDM的側面が強い「Abusement Ride」のような曲もあるが、そこでは朗々とヴォーカリゼーションも披露され、どこかデモーニッシュで不穏なままにリプレゼントされる。


 サイケデリックでトリッピーなムードが本作に通底するのも、ひとつの要因に挙げられるかもしれない。表面上はテクニカルに、スムースに組み立てられているように聴こえるが、「内実」では、奇妙な前衛的な実験と試行が何度もおこなわれている気配が残る。これまでの彼らは、それがライヴ以外の録音物では収まっていない感じもしていたが、断片的ながらも、確実に皮膚感覚に突き刺さる。


 現代音楽的なセンス下のケージ、ライヒから、ザッパが持つドロドロと煮込まれたアヴァンギャルド性、そこに、昨今のモダン・クラシカルの趨勢を織り込み、偶然と抽象性をアート的に高めたという感覚との共振。また、タイトル名も「African Geisha」や「Diego Maradona」など、野放図なところもあるが、その曲名から浮かぶ中での音楽を想像して聴くと、そうとも捉えられない。


 雪崩れるように、獰猛に音や構成が内破されてゆく8曲目の「Stroke」などは、否応なく昂揚する音そのものの快楽性も高い。奇妙なリズム展開、80年代前半のエレクトロ要素さえ感じるガラージ・サウンド、ここまで挙げてきたように、多くの音楽遺産の語彙群からのインスパイアも感じられるがゆえに、散漫なイメージを持つかもしれない。ただ、何も先入観を持たずに対峙すれば、多彩なイメージが輻射される。それでいいと思う。プログレッシヴに求心性を増した今作からアウフガングは真っ当に傍流を往けるのだという気がするからだ。まさしく、今そのものの時間論を越えるダイナミクスが詰まっている今作に喝采を送りたい。



(松浦達)

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