高橋徹也『大統領夫人と棺』(Vivid Sound)

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 現今、高橋徹也の動きに注視がじわじわとだが、集まっているような機運を受ける。カタログは廃盤になっているものも多い中、ライヴでの盛況と評価、リクエストで成立したベスト・アルバム『夕暮れ 坂道 島国 惑星地球』、ライヴDVD+CD形式の『The Royal Ten Dollar Gold Piece Inn and Emporium』、そして、この約7年半振りとなるオリジナル・アルバム『大統領夫人と棺』。


 ここで初めて、彼の名前を知る人も多いと察するので、駆け足になるが少し説明を加えておこうと思う。デビューした90年代後半のシーンとは、ようやく日本語でのオルタナティヴ性が芽吹き始めてきた動きがあり、その中でも、高橋徹也というアーティストの存在はある種、特異であり、総てが「早すぎた」といえるかもしれないが、それは後付けの問題で音楽は同時代性、普遍性に常に引き裂かれる。


 96年のデビュー・アルバム『Popular Music Album』での、ザ・スタイル・カウンシル、フリッパーズ・ギター、80年代のソウル・マナーに沿ったポップ・センスが開花した様と端整なヴィジュアル・イメージでより巷間に呈示される何かはあった。先日の京都でのライヴでは、今作から「サマーパレードの思い出」が今の新曲群とまったく違和なく繋がっていたのは興味深かった。


 そのライヴでも行なわれつつ、アルバムにも入っていながら、リ・カットされたマキシ・シングル「真夜中のドライブイン」からオリジナリティは磨かれてゆく。彼のソング・ライティングとしての手腕は確かなものがあるが、バランス感覚の危うさが映えた97年の「チャイナ・カフェ」というマキシ・シングルのジャケットでは彼がスーツ姿で意味もなく、穴を掘っている。MVでも出てくる、生産性なき、意味なき穴掘り。その穴に落ちるのは自身だったともいえるし、穴さえ掘ることが出来たらよかったのかもしれない。そのシングル内には、曲調も、ジャジーでムーディーな「ナイトクラブ」、80年代的な煌びやかなポップ・メイキングに中華風のリズムが撥ねる「チャイナ・カフェ」、ギスギスした骨身のロックンロール「最高の笑顔」、フィッシュマンズ以降のアンビエントを汲んだ「ナイト・フライト」と総花的な音楽語彙が包含されている。なお、クレジットにはサックスで菊地成孔の名前があり、今は亡き、東京スカパラダイスオーケストラのドラマーの青木達之など錚々たるメンバーが名前を連ねていた。


 その後、98年のセカンド・アルバム『夜に生きるもの』はメディア露出含め、或る層にとっては記憶に刻印されている一枚かもしれない。社会属性的にマイノリティと呼ばれる層への目配せ、勝ち負けを抜きに実存としての敗者の美意識。それを「夜」という暗喩下、「生きるもの」として、混乱で視界を変える。ギターロック、ねじれたポップ・ソング、美しいピアノ・バラッド、そして、彼はなぜか"人の住む場所"へ急ぐ、という生物性の再定義を行なう。考えれば、非遺伝情報の水平伝搬における、知覚系多細胞生命体、俗に言われる、動物での現象への、便益を享受する「ヒト」とは、そのまま無防備に捉えるべきなのか、というと、個人的に精緻には違うかもしれないという気がする。そこでの、伝達の逆再生もときには要るからだ。だから、「人の住む場所」、という感覚は腑に落ちるところがある。それでも、この奇妙さは最終的な着地点としてはあくまで"ポップ"な聴後感を残す。例えば、スガシカオ、斉藤和義がときに描くものと、そんなに居る場所は変わらない。


 続く『ベッドタウン』はよりコンセプチュアル「静かさ」が追求されたようなところがある。静かさ、これは、今作の通奏低音として感じる。


《あまりにも静かすぎて気づかない ゆるやかな郊外の人の流れ/さからうことが出来ない僕の 切り離された国 ここはベッドタウン》(「ベッドタウン」)


 02年の『NIGHT & DAY, DAY & NIGHT』内にも「静かになりたい」という曲がある。


《静かになりたいな 頭の先から足の先まで 冷たくなりたいな 眠っているように》(「静かになりたい」)


 00年代も寡黙ながらも、着実に作品をリリースし、ライヴを精力的に行なっていた。目立ったところでは、02年の『NIGHT & DAY, DAY & NIGHT』でのたおやかなメロウネス、04年の『REFLECTIONS』の編み込まれた眩さ、05年の『ある種の熱』。


 彼は、『夜に生きるもの』、『ベッドタウン』という作品群の延長線上にあるのが05年の『ある種の熱』だと言っている。分からないでもなく、当時の作品と共通するいびつな倦怠と不穏なムードが充満している作品だが、その頃より成熟と頽廃的な上品さも感じられる良作だと思う。ジャズ、ダブ、ソウル、アンビエント、ディティールまで凝られた音響工作。美しくも折れそうなメロディーと、か細くセクシャルな声、それらを解体するかのような切っ先の鋭い日本語詩のフレーズ片は今聴いても、色褪せない。


 さて、8枚目となる本作『大統領夫人と棺』では、本人がオフィシャル・ブログにて詳細に語っているので良ければ、参照にして欲しいが、サウンド的にはベースの鹿島達也、ドラムの菅沼雄太、ピアノ、シンセの上田禎という名うてにして彼を知っている方なら馴染みのプレイヤーをベースに、表題曲ではエレピで佐藤友亮が加わった、ほぼ一発録音でレコーディングされている、シンプルにして、装飾がより削ぎ落とされ、行間をむしろ活かしながら、音楽的に澄み切った純度は高まっている。


 例えば、フランスのアルファ・レーベルの諸作、モダン・クラシカルの背景には、録音に拘りながらも、古典への再解釈、現在進行形の再定義、更新をはかっていたところがあったが、今作でも、彼自身が直截的に言及していたジョニ・ミッチェルのみならず、シルヴァン・シャヴォー、キース・ケニフ、ニコラス・ベルニエなどの最近、台頭しているアーティストの共振も感じ取れた。


 彼らは、コンセプチュアルに作品を構成立て、ときに一篇の小説のようなサウンド・タペストリーを描く。ブックレットに「棺」と呼ばれる散文が載せられているが、寓話性が高いながらも、何かしら内相に降りてゆく意味があり、一曲目の崩し気味に歌い始める「ブラックバード」では《静まり返った空の向こう 渡る鳥の群れ》を追う。


 また、今作では、自然の描写がメタファーとしても残るものが多いのも特徴だろう。不穏な空、日没、台風、海流、雪原、紺碧の空、春の風、急な雨、夏の風、そこに君や僕、ときに鳥、コヨーテ、船などが行き交う。過去の「ベッドタウン」、「空と海の間(昼と夜の間)」辺りを彷彿させる曲もある。とくには、中盤の「Key West」、「雪原のコヨーテ」、「不在の海」の連作的なインストゥルメンタルをベースにしたところに、静かさの外縁を俯瞰しているように感じるのもあるのかもしれない。


 表題曲「大統領夫人と棺」は、その中でも異質な熱を醸す。ポエトリーリーディング調に捲し立てられるまるで南米文学のマジック・リアリズム的な詩にアフロ・ポリリズミックなリズムに支えられ、残映が撥ねるもの。


 基本、どこか第三者的な立ち位置、語り部的な場所からの視線が漂う中、最後の「帰り道の途中」ではミクロな"個"に還る。そこでの彼は、こう紡ぐ。


《季節はいつの間にか装いを変えて 人の心さえ変えてしまう 僕はまだ帰り道の途中》(「帰り道の途中」)


 いつでも過ぎゆくものに敏感でいた彼は、今もまだ途中であるのが嬉しい。


(松浦達)

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