VICENTE AMIGO『Tierra』(SMJ)

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 スペインはグラナダのバーでフラメンコの舞台を初めて観たとき、その舞踏者のステップの反復、フラメンコ・ギター奏者の紡ぐ旋律が哀愁と陶酔を共にもたらせてくれたことを想い出した。特に、"ソレア(Solea)"と称される古典たる曲種にはボサ・ノヴァがもたらすサウダージ、ファドで感じる慕情、タンゴに宿る愛郷心と引き裂かれた喪失感、に近い「何か」があるのでは、と現地の人と話を交わした。つまり、日本人の自分には根源的に分からないかもしれないが、通底する温度には胸が締めつけられる何かがあること。その舞台でも、観客席からはハレオ(掛け声)が飛び、ワイン・グラスやライトの演出とともに、じわじわと場内は熱を帯びていった。


 そもそも、「音楽」の歴史を振り返ることは民族性を巡る諍い、戦争、悲しい事実などの痕を孕むことが多いが、フラメンコの歴史でも重要な役割となったのは、"ヒターノ"というスペイン・ジプシーであり、遡ること、ムーア人というエスニック・コミュニティに伴うものと言われる。掘り下げてゆくと、15世紀の中ごろ、スペイン南部のアンダルシア地方に住みだしたジプシーたちが、その地方に伝わっていた舞踊音楽を彼らなりの意匠で作り上げ、または、彼らの影響の下に演唱され始めたともある。スペイン各地にはいろんな舞踊があるが、フラメンコとは、南部のアンダルシア地方で、ジプシーの関与したものを指すことが多いものの、そもそも、アンダルシア地方は、多種多様な文化、地域との往来が激しく、インド、アラブ、ギリシャなどの音楽、文化が混ざり合う場所として周知かもしれない。


 そこで、フラメンコも「原型」から洗練され、コミュニティ内の小さい音楽から、ショーのための、そして、舞台のための音楽へと繋がるというのは一概に平易なものはなく、先達の苦労、承継者たちの努力、巡る社会環境の状況などが絡み合う。"ヒターノ"にしても、社会内で承認を得て、生きる人たちというよりも逆に社会側から弾かれることもあり、長い間、民族そのものへの迫害も続いたと言われている背景を汲むと、感慨が募る。


 フラメンコでの激しい踊り、圧倒的なパフォーマンスには"ヒターノ"の悲愴にも近い想いが切実に表象されてもおり、"カンテ"と評される「歌」には彼らの来し方が含まれてもいるのを感じ、それは今、グローバリーゼーションの進捗や多くの音楽が洗練と均質化を見せる中でも、核心は変わらずに響く。


 このたび、最新作『ティエラ』を上梓したビセンテ・アミーゴ(Vicente Amigo)は、パコ・デ・ルシア以降といえる伝統への敬意と果敢な挑戦を続けてきた、世界的に活躍するフラメンコ・ギタリスト。おそらく、具体的に作品に触れたことはなくても、デヴィッド・ボウイの前座をつとめたり、1997年のソロ三作目『Poeta』ではフラメンコ・ギターによる協奏曲に挑むなど、そのアティチュードには多くの注目を浴び、また、スティングやミルトン・ナシメント、日本のドリカムに至るまで共演の幅も広く、もしかしたら、意図せずとも、自然と彼の音を耳にしているかもしれない。


 この約3年振りとなる新作の内容は、ベテランのガイ・フレッチャーをプロデューサーに招聘することで、確実に歩みと深化を進めている。


 ガイ・フレッチャーといえば、後期のロキシー・ミュージック、ブライアン・フェリーの作品でもキーボード・プレイヤーとして活躍し、1984年にダイアー・ストレイツの正式メンバーとなり、1985年の世界的な大ヒット作『ブラザーズ・イン・アームス』にも名演奏を刻んだ。近年では、2004年の『サージェント・ペッパー ぼくの友だち』でのサウンド・トラックなど映画、TVのフィールドでも多岐に渡るそのワークスには各分野から評判が高い。


 今作は、ロンドンでの録音、ドラムにダニー・カミングス、フィドルにジョン・マッカスカー、ホイッスル、イーリアン・パイプにマイク・マクゴールドリック。その、マクゴールドックの所属するスコットランド民族音楽をポップに解釈するグループ、カパーケリー(Capercaillie)からアコーディオンのドナルド・ショー、ベースのイーワン・ヴァーナルが参加するなど、ガイの人脈ネットワークがしっかりと伸びている。


 ゆえに、いわゆる、ケルト・ミュージック(とは一概に括れないほど、今は細分化とある種、大文字化が進んでいるが)のたおやかさが混じりながらも、クラシカルにして端整な輪郭を整える淡さが前景する。


 大陸的な慕情とでもいえるのだろうか、フィドルやアコーディオンの翳りを帯びた音色、そこにときに泣いているかのようにも聞こえるあの自在なビセンテのギター捌きとメロディー・センスが混成し、音響そのものもソフィスティケイティッドと併せ、不思議な音風景が滲む。


 傍目には、イージー・リスニング的にも捉えられるところがなきにしもあらずだが、6曲目の10分近い「Rio De La Seda」でのアンビエンスなどは本作が得た白眉たるものともいえるかもしれず、表層的なエキゾチズムと平易に名称づけるには、果敢な実験精神と参加ミュージシャンたちの息吹が溶け合う無国籍のようで、どこかの国でずっと流れ続ける伝承音楽の架空性が意趣深い。


 フラメンコとケルトの血脈が合わさっただけではなく、同時に、誰もが思い浮かべるいかにもな、それら伝統音楽や国境線とも差異がある、艶美さと叙情が詰まっている。



(松浦達)

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