水中図鑑「ふれるところ、ささるとげ」(Self Released)

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水中図鑑「ふれるところ、ささるとげ」.jpg

 加瀬透(Gt/Bv/Vo) 片岡徹弥(Vo/Gt) 河辺志音(Vo/Ba) 鈴木麻祐子(Dr) 中村文子(Key/Bv/Vo)による水中図鑑のファースト・デモ「ふれるところ、ささるとげ」を聴くと、"音楽を残すことの意味"について、ナンセンスとわかっていながらも考えてしまう。


 いまや誰もが発信者となれるし、そのためのツールも数多く生まれている。それらのツールに対する需要は、情報が行き交うスピードが速くなればなるほど増していき、ツイッターやタンブラーなど、ここ日本でも"一般的"と言えるほどの広がりを見せている。こうした状況は、最先端とされる事象や現場を紹介する者、また、それを追いかける者にとっては都合のよいものだと思う。しかし、行き交うスピードが加速されればされるほど、その過程でこぼれ落ちてしまったり、見過ごされてしまう"ナニカ"が増えていく。


 "ナニカ"に当てはまるのは、なにも音楽だけではない。"感情" "風景" "言葉"、さらには"人"など、実に様々である。そして、現代において"音楽を残す"ということは、失われつつある"ナニカ"を記録するための行為としてその重要度が高まっているように見える。もちろんその重要度は昔からあるという指摘も予想できるが、現在におけるその度合いの高まりは、過去に例がないのではないか。だからこそ、ワイルド・ナッシングヴァクシーンズなどに見られる、"ノスタルジーという感覚そのものに向けられた好意や憧れ"が、多くの人を惹きつけるのかもしれない。


 この"感覚そのものに向けられた"というのが重要で、これは"昔は良かったのに"みたいな懐古主義者の戯言ではなく、すさまじい速度で行き交う情報を崇め、追いかけ、偏執的に集める過程で見失いがちなもの、もしくは、すでに忘れてしまった者へ向けられた"哀しみ"、または、忘れる前に目を向けさせようとする"願い"だと思う。


 そんな"願い"を込めた音楽が、ここ最近増えているように見える。筆者が聴いたなかでは、シャムキャッツ『たからじま』七尾旅人『リトルメロディ』、前野健太『オレらは肉の歩く朝』、カナタトクラス「クウシュの夢」cero『My Lost City』ミツメ『eye』などがそうだ。これらの音楽は、"音楽的に古いか新しいか"というより、"何を鳴らし歌うか"にベクトルを向け、大切にしている。その時の自分にしか抱けないであろう情感や思いの残滓をかき集め、それらを音楽に封じこめることで、新たな価値観の提示を試みようとしているのだ。この方法論はおそらく、当たりまえだと思っていた現実が一瞬で吹き飛ぶことを知ってしまった人が多くいる今だからこそ、必要とされているのかもしれない。


 桑沢デザイン研究所のクラスメイトが集まって結成されたという水中図鑑も、そういった"何を鳴らし歌うか"にベクトルを向けたバンドだと思う。初期のスーパーカー、『Isn't Anything』期のマイ・ブラッディー・ヴァレンタイン、ナンバーガール、ソニック・ユース、ジーザス・アンド・メリーチェインなどを想起させるシューゲイズ・サウンドにモラトリアムな初期衝動を乗せて放つような音楽性は、お世辞にも新しいとは言えないし、斬新と呼べる音でもない。プロダクション的な粗もいくつか散見される。しかし、"今"という名の最大瞬間風速を見事に閉じこめている点で本作は、多くの人に聴かれるべき音楽の輝きを獲得している。そして、日常的風景を描きながらも、その日常における自身を内観するような歌詞も素晴らしい。とてもシンプルだが、平易な言葉で感情の機微を表現しており、聴き手の心に最短距離で届く。


 そんな本作は、早川義夫が言うところの、「歌の本質は、悲しみを忘れさせるためにあるのではなく、悲しみを忘れさせなくするためにある」(早川義夫著『ラブゼネレーション』より引用)という考えに近い場所で鳴っていて、それゆえ、このまま順調に活動を続けていけば、いずれ"過去"になってしまうであろう情緒がノスタルジーを響かせている。その点でも本作は、"今"聴かれるべきだ。大人になるとは失うこと。その失われる前の姿が克明に刻まれているのだから。



(近藤真弥)



【編集部注】本作は水中図鑑の公式サイトからダウンロードできます。                                                            また、CD-Rはライヴ会場でのみ入手できます。

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