菊地雅晃『On Forgotten Potency』(Cerbera Records)

|
菊地雅晃.jpg

 1曲目「Potency」は太いウッド・ベースの音だけがまっさらな空間にゆっくりとその存在を刻み付ける。そこに、アナログ・シンセの電子音が乗り、ドラムがリズムを取り出す。非常にミニマルな導入だ。そして、スペーシーなシンセ・サウンドが空間に静かに幕を下ろすように滑らかに広がってゆく。フルートのサウンドはどこか郷愁的なメロディを奏でながら曲線を描く。この曲の、いやこのアルバム全体のポイントとなってくるのはこのそれぞれの楽器の音色だ。アルバム全編を覆うこれらの音色はフュージョン的、AOR的ということである程度一括でき、それは多少大まかではあるがおそらく間違いない。しかし、「今」、このサウンドを聴くとこれはある種のノスタルジアを自然とそのサウンドの表現の中に内包する。


 数年前、「チルウェイヴ」というムーヴメントがあった(その影響は今も大きい)。それはインターネットを足場として起こったポピュラー・ミュージックにおけるムーヴメントで、中心的な発信源というのは地理的には存在しえなかった(無論、地域的な繋がりがありはしたものの)。音楽性も何かとバラバラで共通項を見いだすことがなかなか困難なこともあるこのムーヴメントであるが、1つ顕著な共通点をあげるとすればそれは「ノスタルジア」なのだ。その「ノスタルジア」の対象は80sエレポップに存在していたチープなシンセサウンドであったり、ディスコ・ビートだったり、リヴァーヴがかったヴォーカルであったりとこれまた多様なのだが、とりあえず(大雑把な要約ではあったが)このムーヴメントにおいて「ノスタルジア」が象徴的に機能していたことは間違いない。


 また、同時期に、英米を中心として、フィル・スペクターによるウォール・オブ・サウンドや、ザ・ビーチ・ボーイズの音楽の意識的な模倣(無論これはチルウェイヴと同期的なものでチルウェイヴと完全に分離できるものではない)など、60sのポップ・ミュージックへの「ノスタルジア」も数多く散見された。このように、ゼロ年代からテン年代にかけて、ポップ・ミュージックの世界で非常に過去への目線が強かったことは間違いない。そしてその過去を愛でる「ノスタルジア」について、音楽メディアを中心に様々な議論がなされ、我々の耳(我々には誰が含まれるのかは難しい問題ではあるが)は「ノスタルジア」という言葉や、それが内包されている音に対してある意味では非常に敏感になっている部分がある。


 それが、「今」という時代の、リアルタイムのポップ・ミュージックを追ってきた人々の耳であるととりあえず考えると(筆者ももちろんそうである)、この作品『On Forgotten Potency』に対する評価はなかなか難しいものとなってくる。


 先ほども書いたようにこのアルバムの全編に漂うのは80sのAORやフュージョンなどである。最終曲「Chan's song」はハービー・ハンコックのカヴァー曲であり、ここでは大々的にヴォコーダーが取り入れられているなど80s的な演出が徹底して施されており、このアルバムにはテーマとしてある種の「ノスタルジア」が共通項として存在していることは明らかである。このアルバムに収録されている曲たちは極めて完成度が高いものばかりで、ヘッドフォンで聴くと非常にそれが良くわかるのだが、その音色の処理は細部に至るまで極めて緻密に調整されている。そしてそれが生み出している音の空間には非常に居心地の良いノスタルジアが漂っていていつまでもそこに浸っていたい欲求に駆られる。


 だが、我々は本当にこの「ノスタルジア」に浸ってよいのだろうかと、その音空間に散りばめられている快楽に誘惑されればされるほど、思わずにはいられない。この思いは「チルウェイヴ」をリアルタイムで追っているときにも全く同じ感覚を覚えた。ノスタルジックな音像を掴んだ上で刺激的な音楽を創り上げたアクトなど、本当に一握りでほとんどのアクトはベタに「ノスタルジア」に拘泥しているように見え、聴き手としてその音と向き合った時、そこにはどこか言いようのない悲しみを覚えずにはいられなかったのも事実である。


 ノスタルジックになるのが悪いと言っているのでは断じていない。過去を振り返るのが悪いと言っているわけでもない。ここで書きたいのは「音楽にとって過去と向き合うとはいったいどういうことなのか」という極めてシンプルな、筆者自身のここ数年にわたる問いである。このアルバムの評価の難しさは筆者自身がこの問いに答えを出せていないからだ。音楽がこの先何を鳴らすことができるのかという問題を考える際に避けることのできないこの問いの重要さを、このアルバムは改めて思い出させてくれた。



(八木皓平)

retweet