GNAWA DIFFUSION『Shock El Hal』(オルターポップ)

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 昔のこと、ビロードの上に春が来るとき、それは多くの民主化運動の隆盛とともに、カオスが紛れ込んだ気配が孕んでいた。昨今のアラブの春を巡り、彼らの祖国たるアルジェリア独立50周年の夜明け前に、一度は2006年に15年間の活動を終え、解散したバンドが10年振りに回帰せしめた気概にまず胸が打たれる。


 紛れもなく、グナワ・ディフュージョンの新しいオリジナル・アルバムとして聴くべき作品自体は充実した内容になっている。当初は、グナワ・ディフュージョンとして作られるのではなく、中心メンバーたるアマジーグ・カテヴのソロとして用意していたともいうが、こうして上梓されると、グナワ、シャービ、ラガなどを跨ぎ、軸はロックとして鋭さを保っているという意味でレヴェル・ミュージックと大衆のための祝祭性、ハレを用意せしめているのは意趣深い。


 また、アラブの諸国で連関して起こる問題とは歴史的背景、一部集権のシステムを差し引いたとしても、<反>への副文脈が蘇生されるまでのタイム・ラグの下、時代が持つ多国籍的な共犯性を暴こうとするサブ・スキームは看過できない。


 そもそも、「ワールド・ミュージック」という便宜、恣意的なカテゴリーの中、90年代からフランスのマグレヴ(北アフリカ諸国)という出自の不世出のミクスチャー・バンドはマヌ・チャオやバルカン・ビート・ボックスの影に隠れがちでもあったと言えるかもしれない。オリエンタリズム的な色眼鏡で対象化をはかられることもあっただろうに、バンドとして『Shock El Hal』(日本語タイトル、『時代の棘』)に至る経緯は歳月だけが解決しえない、今の温度に適合するためのグルーヴと熱量に溢れている。これまで以上に、キーボード、エレピ、DJ的なセンスが入り、現代性にアップデイトされているためか、土着性を昇華し、スムースかつジャジーに研磨されているが、果たして、この「洗練」をしてグローバリズムへの内部化への道筋と言えば、精緻には違い、内破の構造に近い気もする。


 アラブの春は、遠い春だったのか、文献を幾ら読んでも、例えば、現地に行っても、分かり得ない重みがあるが、その重みをこうして音楽に等価交換、アウトプットして、中指を立て、あくまで高尚に抜けない剛毅な意思に縁取られた響きが巡り、そこで、聴衆たちは踊ることができる。その意味の方が大事なのだと感じるからだ。


 先進国、欧米流の手法が「全部」でも、「部分」でもなく、また、「帝国」と呼ばれる概念が」ネグリ=ハートを援用した上でのいま起こっているのは、主権たるネーションが「帝国」というグローバルな支配権に統合される過程かもしれない、と捉えるには9.11から時間は流れてもいる。ネットワークのようにシナプス的にグローバル化が地表化し、そこでの国家の決定権は実は「誰にもない」という問題意識に対しての鏡像の模写を行なう意味付けからマルチチュードという概念は前景する。


 マルチチュードのモデル化が為される意味の附箋を貼れば、<反>さえも帝国に内包されるディレンマはありはしないか、という疑義は問われ続けるべきだとも思う。


 音楽とは、あくまで社会的制約から自由を目指す。


 荒野に立ってしまう要素を含んだとしても、その荒野で何らかの祭祀は行なわれるだろう。この作品から見える自由は、どんな環境、場所で呼吸をしている市井へ寄り添い、また、政治意識が高い、高くないを別次に仮置き、自然と猛る音で空気を揺らす。ここで展開される音像に感応するだけで、春を待つことができる想いは強まる。



(松浦達) 

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