Mr.Children『[(an imitation) blood orange]』(トイズ・ファクトリー)

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 《自分に潜んでいた狂気が 首をもたげて 牙をむき出し 両手を挙げる もう手なづけられはしないだろう》(「hypnosis」)


 このアルバムを前にして、否定の、否定は難しくある。ただ、肯定の、肯定にもいけないもどかしさが基軸にある。何故ならば、彼ら自身が半ば意識的にMr.Childrenという巨大な装置性をパスティーシュしているからなのであり、アルバム・タイトル『[(an imitation)blood orange]』という括弧内、括弧で記すように、オレンジの果肉が血のように赤い、さらにイミテーションを置くまどろっこしさから生まれるべくして生まれたアルバムではなく、アレゴリーとして巷間の集合的無意識に作られたものなのかもしれない。


 もはや、Mr.Childrenというメタ/ベタな日本語英語を見ても、ほぼ国内では例のバンドのことを夢想するだろう。サザンオールスターズが国を代表するロック・バンドだと置いたとき、彼らは困るのも道理であり、『Everything』以降の彼らはスタイル・カウンシルやマシュー・スウィートのようなバブルガム・ポップを主軸に、「青い季節のなかでメインストリートへ行こう」、という野心に満ちた爽やかな上昇の道を踏んでゆく気概と努力に溢れていた。そこから、「Cross Road」という地味ながらもブレイク・ポイントとなったシングル(しかし、カップリングはブルーアイド・ソウル調の軽快な「and I close to you」で、1993年のアルバムの『Versus』からのリ・カット曲)で非常に良い形で、当時のJ-ROCKのセンター・ポールに近付き、「innocent world」というダイナミクスとユーフォリアが混ざり合う曲でついには、《mr.myself》と自意識の認定印を押した。当時、今はどの軸に行ってしまったのかさえ分からない小林よしのり氏も絶賛を寄せていた、そんな90年代の覇者の一組であり、自意識の牢獄のなかにこそ、潜るほどに視力矯正が為される、その様態を作品毎でドラマティックに、パフォーマンスでも真摯に魅せる、その客層は当時の若者たる僕や女の子のみならず、少なくない数の「中年男子」も居た。


 考えてみると、言語生成論としてラングのなかには諸差異しかなく、一般的に差異というものの幾つかの実際的辞項があるからこそ、間に入ってくる差異が生じることを前提としているが、ラングのなかに実際的な辞項、諸差異しかない。となると、体系から生じた概念的諸差異、音声的諸差異のヌヴェル・クリティークの文脈で見れば、90年代の彼らは浜田省吾氏、佐野元春氏らの先達の概念的諸差異に「敏感」であったがゆえ、自分たちでどんどん自らを追い込むことになったのは皮肉でもあった。


 歌詞の一つ一つ、元ネタまで精査され、メンバーのスキャンダルが社会を賑わせ、疲弊の色を特に見せていたのがヴォーカルで、主に作詞曲をする桜井和寿氏だったのだろうと思う。少なくとも、デッドかつラフな音質で録音された『深海』で驚いたリスナーも居たことだろうし、これこそが彼らだ、という賛否両論の声もあった。なお、そのツアーでは、『深海』の曲が曲順のまま、演奏されるヘビーなものだった。"終わりなき日常"の中で、若者として生きた誠実な自分探し、自意識肥大の果ての「深海」だったのだろうか。双子作的な『Bolero』を聴いてみても、シングルで持ち上げられる軽やかさはあれども、悲痛なまでの意味論的地平との絶縁へ近付きながら、縁を切れないから、《夢はなくとも 希望はなくとも 目の前の遥かな道を やがて荒野に 花は咲くだろう あらゆる国境線を越え》(「ALIVE」)という極北へ行って"しまった"ところに、個人的に滅入るところもあった。そして、しばしの活動休止。無邪気なロック・スター、メガ・バンドの螺旋階段を昇る過程で浸食されたのは、実は自意識が成立させてしまうロックの因業であったともいえた。だからこそ、自意識で駆け抜けた今、00年代半ばから自己対象化の作業に入ってゆくのは分からないでもない。


 シーンに回帰し、その後、順当に活動を続けるなか、9.11があり、「断線」が挟まれる世に、バンドとしても、桜井氏が小脳梗塞で02年に倒れる。一度、「寸断」されるバンドを巡るナラティヴと軌跡。再帰と迷走を巡っていたそれまでの彼らのバンド・ヒストリーが宙空の上に"Mr.Children"というバンドは滞留しながらも、常に危うさを帯びた場所に居た。


 それゆえに、"君と僕"を巡る壮大なバラッド、「しるし」でのヒットから、『Home』への流れでは既存のファン層が加齢化したのもあるが、並列に、新規参入者のユースやキッズも混じることになり、ファミリー・シートで観る彼らという構造が象徴しているように、00年代の日本の「真ん中のロックとしての仮想敵」に置かれながらも、異端/正統、本流/オルタナティヴの狭間を行った。『Home』の存在は大きく、ロック・バンドとしての役割はここで終えたともいえるかもしれないが、ありふれた日常のありふれた事を拾い上げ、過剰装飾の無い音で投げ掛ける、それだけのアルバムがフラットにそれを「する」ことで、皆の日常に「なる」という「反転」状態が起きたという意味で、このアルバムが持つ不気味なパトスは、彼らを何度目かの前線に戻すことになった。


 彼らの「大文字の日本語」の接続は破綻しているようで、ときに小文字を生きる人間でも「心当たり」にフックをする。そして、巧みなアレンジメント、ヴァース/コーラス/ヴァース形式、キャッチーさ、ドラマティックさを多くの曲が含む。だからこそ、彼らを巡る磁場は徹底的な思考停止性を孕んだ礼讚か、小文字を詰め込んだ距離感を示すジャッジか、どちらにしても「巻き込まれてしまう」というある種の不健康さがある。社会的誠実さ、体制内反体制、勝ちながら負けているフェイクをステージで体現するとき、実のところ、彼らほど「みんなのバンドではない、みんなのための、と錯覚されているバンド」はないのではないか、という気になる。


 亡きコラムニストのナンシー関女史が、日本は、実は八割がたはヤンキー、つまり、勝ち上がり、成り上がり、ブラッド・アンド・スウェットを潜在的にしても愛好していて、そこから外れるファンシー、サブカルという層のマスはだからこそ、有限リソースではないか、というようなことを書いていたが、あながち、ズレはなく、彼らはやはり成り上がりを真っ直ぐに行ったバンドなのだと思う。ただ、レディオヘッドよりはU2的な野暮ったさが魅力でもあり、イロニカルな存在に今も彼らを借置きせしめる。


 あの2011年3月11日の東日本大震災を受けて、初の配信シングルでリリースされた「かぞえうた」からしてもそうだろうし、このアルバムの起点はそもそも、その曲だからだ。近年の彼ららしいスクエアが大きく、ピアノをベースの茫漠としたバラッドの中で模索される"希望の唄"。それをどんどん曲の展開が広がってゆく中で、彼らはかぞえる。


 《かぞえうた さぁなにをかぞえよう こごえそうなくらいうみから ひとつふたつ もうひとつと かぞえて あなたがさがしあてたのは きぼうのうた》(「かぞえうた」)


 今年になり、4月に映画主題歌などをおさめたシングル「祈り~涙の軌道/End of the day/pieces」、さらには01年から10年の主要曲をコンパイルしたベスト・アルバムの二枚が大ヒットし、自らのバンド存在をメタ的に捉えた"POPSAURUS"の2012年版ツアーを敢行し、ap bank fesの複数地開催など、動きが加速する。更に、ドラマ主題歌、CM、TVのためのタイアップとしてどんどん新曲を巷間に見せていった。ゆえに、このアルバムでまっさらに初めて向かい合うことになる曲は、「イミテーションの木」、「インマイタウン」、「過去と未来と交信する男」だけになる。11曲中の3曲。少ないと見るよりも、全容をここで知ることができる曲もあるゆえ、やはり、オリジナル・アルバムになるのだろう。


 はたして、ここまでの流れは08年の『Supermarket Fantasy』からなのだろうか、というと、精緻には違うとも個人的に思う。現在に至るだろう再蘇生をした『Home』というアルバムの存在が大きかったのもあり、また、オリジナル・アルバムでの2年前の前作『Sense』はもっと捩れていた。特に、「擬態」。期待ではなく、擬態。アスファルトに跳ねるトビウオに擬態して、と歌うこの曲はいくら最近の桜井氏がとみに「歌の解釈は皆に任せたい」と言っていても、視差がありすぎた気がした。


 そこで、今作は遂に「主/客」の未分化が彼岸まで進んだと云えるところがある。それは誰しもその歌に入り込めるという訳ではなく、そこでの僕は"僕ではなく"、あなたは"あなたではない"記号等価性が高まったからだ。その間隙を縫い、別離、死や希望などの大きな言葉が芽吹く。そこを意識してか、「常套句」という曲も入っている。


 《僕等はひとつ でもひとつひとつ きっとすべては分かち合えないはしない 互いが流す涙に気付かずにすれ違って 今日も ここにいる》(「pieces」)


 《君が想うよりも 僕は不安で寂しくて 今日も明日もただ精一杯 この想いにしがみつく 君に逢いたい 君に逢いたい》(「常套句」)


 つまり、聴いていて本当に感応点が消失しているような怖さがある。郵便性よりも、もっと、最近の彼らのバンド・サウンドをベースにしながらも、多層的で淡いアレンジメントと例の桜井氏の声、バック・ブレインたる小林武史氏の妙が効いており、聴きやすく入り込みやすいが、聴き直すたびにアルバム・タイトル含め、Mr.Childrenの新作としてリリースした意味が透けて見えてくる。


 例えば、「youthful days」、「エソラ」に並びライヴでも映えそうな、2曲目のバブルガム・ポップ「Marshmallow Day」のカラフルな弾み方が2曲目にして「浮く」位相。しかも、当該曲も奇妙でCMで既に一部が流れていたのもあるが、全体では、恋愛そのものを歌ったにしてはこれまでより語彙が錯乱しており、以下のように、「死」の文字も出てくる。語彙の錯乱、それは音楽的語彙のカオスと近似する。


 《やわらかな体温に触れる時 心は天空を飛んでる Ah そのまま死んでしまえるなら それがいい 君の吐息 甘い雰囲気に埋もれて》(「Marshmallow Day」)


 後半、9曲目のダークな「過去と未来と交信する男」辺りでも、「ニシエヒガシエ」、「フェイク」までの詰められた行間がある訳でもないが、ハレ・サイドのポップ「Happy Song」、シングル曲の「祈り~涙の軌道」で終わる構成も練られているとは思う。


 この『[(an imitation) blood orange]』もこれまでどおり、いや、もしかしたら、以上に、多くの人に届くと察するが、今のMr.Childrenは巨大なヴァニシング・ポイントから日本の真ん中に不気味な擬態、奇謀を預けている。その「擬態」を「期待」に、奇妙な謀を「希望」に読み替えられる集合的無意識サイドの耐度に個人的に関心が向く。


 Mr.Childrenという存在と、彼らが放つ熱量は、「共犯」とかでは間に合わないくらいのレベルでメルロ・ポンティ的な「既に、出来上がった思想」を翻訳する行為を個々に託しているのではないだろうか。リリースされることそのものに意味がある作品だと思う。



(松浦達)

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