【合評】スッパバンド『KONTAKTE』(Kiti)

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 「ほら、ちゃんとしっかりしなさい。大人なんだから」。そんな言葉を聞かされるたびに、大人ってなんだろうな、と考えさせられ、その度にナンシー関の言葉を思い出す。


 《「大人はちゃんとしているものだ」という考えが大間違いであることに気がついたのは、20歳を過ぎてからでした。》(「何の因果で」角川文庫より)


 そもそも"大人"なんていう基準あるようでないものなんだから、何だっていいじゃないか。でたらめなまま、わからないことだらけのまま大人になったっていいじゃないか。傷つきやすいまま大人になったっていいじゃないか。そんな想いを抱いている人には是非スッパバンドを聴いてもらいたい。どんな姿でいてもいいんだよって、全てを肯定してくれているように思えてくる。


 例えるならば、日本人だと倉地久美夫、外国人ならハーフ・ジャパニーズのジャド・フェア、パステルズのステファン・パステルといった素朴で繊細、そして硬派で、ときどきクレイジーといった、いつも目が離せない子供のようにプリミティブでイノセントな曲調。とはいえ、特筆すべき部分は歌詞にあるのではないかと私は思っている。本作の言葉には、どこか遠い過去に置いてきてしまった素直な感情があるからだ。


 《月が球体だって信じられない / あの月が丸いなんて確かめられない / 空に綺麗な爪が嘘みたいに / ただ浮かんでいるようにしか見えないから》(「キアヌリーブス」)


 "月が丸い"なんて教科書で習ったけど、本当にそうなのか、実物をしっかりこの目でみたわけではないから確信は持てない。けれど、周りがそういっているし、「何で丸いの?」って訊いたら変だと思われそうだしなあ...よし、じゃあここは周りに合わせておくか...なんていう心の葛藤のようなもの、皆さんも一度くらいは持ったことあるのではないだろうか。そういう、「大人になったら口に出しては訊けないこと」も素直に書かれているから、聴いていて安心する。


 「ラブミー0点だー」には、《浮かれていたいのに / 全部気のせいな気がする / ひとつひとつにドギマギして / 減点を回避しようとしている》という一節がある。年を重ねていくと、自分自身の不備を隠蔽したくなる。大人であることに責任を持たねばならないからだ。役回りだけは大人、偉そうに出来る。でも中身は子供といった感じだろう。だが一方で、《素直になりたくて / 素直になれなくて / 素直ってなんだっけ? / 素直になれたって》と胸の内の葛藤を明かし、さらに《年甲斐もなく背伸びしようとしてる時点で / もう0点だー / 0点だー》と、隠蔽しようとした自分を認めてもいる。素直に反省したそんな自分を愛そうってことで「ラブミー0点だー」と名付けたのだろうか。そんなことを考えた。


 この『KONTAKTE』、素直な子供が持っている歪(いびつ)でユーモラス、そしてキラキラ輝く美しさを全て持った大人のよう。いつまでも童心を忘れずに、そんな大人になれたらなあ。そう思わずには居られない一枚だ。




(立原亜矢子)


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 スッパバンドの本作『KONTAKTE』は、今まで僕らが漠然と頭の中に思い描いていた音楽というものを、あまりにもチャーミングに飛び越えて、聴き手の音楽的価値観すら更新してしまう。本作を聴くと、むさぼるように音を食い尽くしたくなる。もっと音をくれ。スッパバンドの音をくれ。その素晴らしい音楽愛が宿った音を、もっと欲しいんだと、叫びたくなる音世界に溢れる。中毒性が物凄い。


 スッパマイクロパンチョップこと水越タカシがフロントの、このバンドの中毒性とは挑戦から生まれていると感じる。冒頭曲「いんぺいソング」で《正しいこと言わなくてもいいならいいのにな / 間違ったこと言っても咎められなかったらいいのにな》と歌われるように、もし、音楽に間違いがあるとすれば、本作は間違いを楽しみ、間違った音だったとしても、それは自分の音なのだと受け入れる達観が宿った音がポップにカラフルに舞いながら飛び出し、音楽への挑戦を綺麗に整頓しないまま鳴らしている。そうして生み出されるスッパバンドの音楽性は、正解と間違いの二元論で片づけられず、潔く、ともすれば雑然と言えるのだが、心地よく刺激的だ。本作をトイ・ポップやポスト・ロックと評する声はあるのだろうが、違う。トイ・ポップやポスト・ロックへのカウンターとして受け取れる。


 緩やかな風に乗りながら季節が移り変わるほど自然に楽曲の展開は変わり、時として音の高揚と鎮静が突発的に変わり続ける本作は、しかし、混沌とは違う。すっと音の中に入っていける音世界は様々な音が飛び交い、コーラスもノイジーなギター・サウンドも、擦れの感触があるラップに近い歌も、直接、聴き手に迫ってくる。音が僕らに染み込んでくるというよりは、一瞬で飲み込まれてしまうような音の全てに痺れ、そして、和みに近い温かさに包まれてしまう。迫力と安堵。それは相反するものではなく、「迫力という安堵」というパラドックスがある。


 それは水越タカシとともに、トクマルシューゴ・バンドのドラマー岸田佳也や、デューク・エリントンと例えられるマスダユキ、パニックスマイルのDJミステイク、橋本史生という編成から見て取れるように、音の多国性と音の鳴りを突き詰めているから生まれている(麓健一も参加)。音を突き詰め尽くした先の音色があるのだ。聴いたことのない音色が。今にも泣き出しそうでいて平静な水越タカシの歌声、そこに乗る穏やかで雄大なコーラス。余韻を残すドラムス。ころころと、また、水滴を鍵盤の上に落とすように丁寧に鳴るピアノ。時として歌声は打楽器のように響く。ノイズがばらまかれ、鼓膜に突き刺さる。ノイズと、ピアノやドラムスの音色の対比は本作の聴きどころだと言える。しかもエコーの効かせ方が今までにないもので、わずかにサイケデリックな感覚を楽曲に与えるが、それをぶち破るようにギターが突き抜けるものだから、次にどんなメロディーやサウンドが鳴らされるのか分からないスリルに満ちる。特に「キアヌリーブス」は即興の色が濃い。


 そういった自由な鳴りがあるからか、本作は「フリー」と呼ばれることがあり、確かにフリー・ジャズ的なものも感じる。しかし、フリー・ジャズとは別ものだ。例えばフリーに行った時期のジョン・コルトレーンが、先に行くことしか許されないアーティストになってしまったのとは違い、スッパバンドは気負いなく自由に音楽を奏でる。


 そもそも水越タカシがフリー・ジャズに否定的であり、では、この作品は、何からのフリーなのかという疑問が浮かんでくる。思うに、楽器の音色という制限からのフリーではないだろうか。音色とは、楽器の構造によって制限される側面を持っている。本作では、構造という制限からの遺脱を図り、楽器というものの新たな可能性を探っている。だからこそ、未知の音があり、未知の音楽として聴こえ、それゆえの中毒性と驚きもあり、さらには技巧からの離脱として聴こえてくる。本作は楽器の構造への否定であると同時に構造の可能性を導き出しているのだ。それらが結果的に即興に結びついているというだけなのだろう。しかし複雑ではなく、不思議とやさしく温かい。


 可能性を探ることは、もはや実験的ではなくなった。《歳甲斐もなく背伸びしようとしてる時点でもう0点だー》(「ラブミー0点だー」)と歌い、ユーモアすら含め、自分をさらけ出ししている『KONTAKTE』は、ポピュラー・ミュージックがポピュラー化(大衆化)しない今だから生まれた作品であり、それゆえの瑞々しさがある。先に「本作は挑戦」だと記したが、自分を自分の中に閉じ込めるのではなく、自分に挑戦し、音楽に挑戦することが「挑戦」になり、それらが当たり前になった時代の空気を思いきり吸い込んだ音が本作なのだ。そうして僕らの既存の音楽観を飛び越える。しかもポップに。そこには音楽愛が確かに見える。だからもっとスッパバンドの音をくれ。これは音楽ファン全ての声だ。




(田中喬史)

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