洞『発見』(Kiti)

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 洞は世の中にばらまかれている絶望論など信じない。虚構を信じることもない。混沌であったとしても、混沌であることが今のリアリティであり、おかしな自分も、おかしなあなたもリアルだと、混迷、混沌を受け入れる。外(社会)で自分の存在意義に迷い、重苦しい気分というものが、自己の発見を内閉へ求めた人々によって生じたのだとしたら、それを受け止めた上で音を鳴らし、重い気分をも受け止める。そうして聴き手に新たな道を、新たな希望を与える音を奏でる。


 本作はとてもサイケデリックではあるけれど、そこに逃避は存在しない。洞は逃避することによって生まれる「新しい道」や神頼みを信じていない。無論、逃避することでいくらか現実を客観視できることはあるとは思うが、それ以上に、サイケデリックな音の中で聴き手が溺れてしまうことを危惧している。だから、本作はあくまでもメロディというポップ・ミュージックには絶対に欠かせないものをとても大切に鳴らす。ポスト・ロックやシューゲイザー、フォークトロニカを通過し、リズム・ボックスやギター、キセルを思わせる歌声がメロディに添い合った時の甘い開放感は素晴らしく、その甘美さはサイケデリックと言ってもいいのだが、しかし、誤って眠剤を飲んでしまったかのような昏睡はなく、すっと気持ちのわだかまりが抜けていき、湿った土の弾力を足の裏に感じながらも歩を進める潔さに打たれる。


 逃避することから逃避するという逆説を唱える本作のサイケデリックとは、ある種の覚醒であり、目覚めだ。素朴で、どこか謙虚で、物陰からこちらを窺っているような音楽で、幻想的とも言えるのに、胸にくるものがある。本作から決意を感じるのだ。この音楽は人の目を覚ますものであるという決意が。それは、長野をベースに地道に活動を続けたゆえの、都市で生まれたサイケデリック・ミュージックへのカウンターなのだろうし、都市で生きる人々への助言として本作は響き渡る。「人としてどう生きたいのか?」と。


「堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない」、そう中ジャケに書かれている。おそらく坂口安吾の言葉から取ったのだろう。本作には、もろく儚い人間の姿をそのまま描き出している音がある。もろく儚い、あまりにも弱い人間の姿。それは、ともすればネガティブなものとして捉えられてしまう危険性もはらんでいる。だが、僕らは弱さを受け入れ、自覚しなければならないのではないか。洞の音楽の隅々には、そういった聴き手への問いかけが滑らかなメロディー・ラインに沿って流れている。


 弱さを隠して強く振る舞い、掛け声だけの夢や希望を高く掲げ、自分に強さという暗示をかけ続ける人生があるとすれば、それは、ひどく苦しい。もし、生きることが重くなったら、「生きていること自体が不幸である」なんていう言葉がまかり通ってしまう時代に嫌気がさしたら、本作を手に取ってほしい。『発見』というタイトルにあるように、弱さを見詰める強さが発見としてここにある。大切なこととして、温かくここにある。それらは決して慰めではない。人としての強さ、やさしさなのだ。本作はたとえ小さな歩幅だったとしても、僕らの確かな一歩を照らし、新しい道を生み出す灯りだ。音楽は、人を変える。



(田中喬史)

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