空気公団『夜はそのまなざしの先に流れる』(Fuwari Studio)

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 音楽とは不思議なもので、その時代によって様々な視点から捉えられ、価値も変化していく。それは、ある時間を封じこめる録音芸術としての側面を持つ音楽の宿命であり、可能性なのだと思う。でなければ、多くの人が何かを創造し形にする行為にロマンを抱くこともなかったのではないか。


 このロマンは、なにも音楽だけの特権ではない。例えばフランスの画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールは、ルイ13世から"国王付画家"の称号を得ながらも、一時期は彼の作品がスペインの画家によるものと思われるなど、いわば"忘れ去られた存在"であった。しかし、20世紀初頭にドイツの研究者へルマン・フォスによって再発見され、それをキッカケに、いまでは研究対象として多くの人の興味を惹きつけている。これもラ・トゥールが作品を残さなければ起こりえない世紀を越えた繋がりであり、"残す"という行為の素晴らしさを端的に示している。


 空気公団の1年半ぶりとなるアルバム『夜はそのまなざしの先に流れる』は、"残す"ことの尊さを音楽として見事に表現したアルバムだ。本作は、2012年7月6日に日本橋公会堂でおこなわれた一夜限りのライヴ・パフォーマンスを録音し、それをベースに制作されているが、そのライヴには演劇ユニットのバストリオが参加するなど、スタジオ盤でもライヴ盤でもない、録音芸術の可能性を追求したものとなっている。そうした試みから生まれたのは、"時間"をアルバムというフォーマットに刻みこんだ、いわばタイムカプセルのようなもの。時計の針が進む音で始まる「天空橋に」の存在も、この想像を後押しする。


 そしてなにより印象的なのは、その"時間"が聴き手の過去の出来事や思い出をフラッシュバックさせること。本作は洗練された音で覆われ、前作『春愁秋思』と比べればいささか主観的な空気を漂わせるものの、聴いていて心地よいリラクゼーションをあたえてくれるアルバムであり、聴き手の想像力が入りこむ余白とそれを許容する空気公団の姿勢が伝わってくる。


 それは例えば、「天空橋に」のイントロ~歌いだしからも窺える。音がひとつひとつ丁寧に重なり交わっていくイントロは、山崎ゆかりの祈りに近い歌声が聞こえた途端に、それまで鳴っていた音のほとんどがサッと引いていく。これはハメるタイプのダンス・ミュージックに多い抜き差しの手法だが、こうした手法が本作では散見され、それは物語としての起伏を生みだすと同時に、退行催眠に近い体験を聴き手にもたらすものである。


 もうひとつ、本作を聴いて思うのは、空気公団の作品としてはもっとも"今"に寄り添うものとなったのでは? ということ。そもそも空気公団が15年近くも活動し評価を得ることができたのは、時代や流行とは関係なく自分たちがそのとき表現したい音楽を素直に鳴らしてきたからだし、それは古い/新しいといった価値観とは程遠いものだ。


 だが本作における空気公団は、当たりまえと思っていたことが簡単に壊れる現実を嫌でも実感しなければならない"今"において、原初的な繋がりでもってみんなが集まる場所のように見える。このことは参加ミュージシャンの山本精一、山口とも、奥田健介(NONA REEVES)、tico moonが部外者として空気公団と関わっているよそよそしさを出していないことからも窺え、そしてそれは、空気公団自身が"空気公団である"という自意識をまとっていないことが主因ではないだろうか。だからこそ、退行催眠のように過去の出来事や思い出がフラッシュバックさせられ、それによって聴き手は感情移入し、本作を完成させるピースとなる。この寛容性と呼べるものに筆者は、これまで数多くの人々によって紡がれてきた、音楽という文化の持つ希望を見いだしてしまう。




(近藤真弥)

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