工藤鴎芽「梔子e.p.」(Self Released)

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 京都を拠点に、独自の道を切り拓いてきたオルタナティヴ・アーティスト、工藤鴎芽の核心には実存そのものの不安や孤独、生、死を巡ったものが多かった。それは彼女の感性として、あらゆるものに鋭敏過ぎるがゆえに、自己を追い込み、その毒が全身にまわってしまう前に音楽として外へ出さないといけない、非・自己への切実さも感じた。このEPのタイトルに付され、1曲目に入っている「梔子」からして印象的で、梔子は園芸用の花としてもよく目にされるが、幾つもの含みがある。果実が熟しても、割れないための「口無し」という和名説。園芸用としても蟻が集まってくるなどで積極的に求められない場合もあること。個人的に、梔子と言えば、江戸川乱歩の『梔子姫』を想い出す。


 乱歩のあまたの作品群の中でもあまり知られていない作品かもしれないが、そのデカダンスとロマネスクは馨るものがある。親の遺産を食い潰すだけの「私」は、30代も半ばを過ぎてしまうと、大抵の世の事にも飽きて、身体の一部がどこかまともではない女性たちが巣食う宋公館を訪れ、梔子姫と出会う、という内容。狂気は正気が基準なのではなく、正気は正気ではない状態と拮抗することで、初めて「狂気」を確認できる。正気と狂気は鬩ぎ合わず、浸食し合うのみで、反転はしない。


 EPとしては、おおよそ1年2ヶ月振り、5枚目となる『梔子e.p.』は、これまでのキャリアを踏まえた手触りはあるが、悲痛さ、叙情と多重録音されたゆえのサイケデリックなサウンド・レイヤー、エコー、空間を切り裂き、叫ぶような動的なヴォーカルから静的な揺れを見せる振り幅まで、「宋江館」での幻惑の出逢いを聴き手に預けるようなものになっていると言えるかもしれない。1曲目の「梔子」から弦の響き、優雅な誘いを促すイントロに、いつものようにザラッとした彼女の声、そこに重ね合わされる亡霊のような彼女のハーモニー、電子音の粒の目が粗く刻まれだしたら、もう終わっている。1分と少しの間に詰め込まれた膨大な情報量と想い。サイケな浮遊感そのものにはニューゲイザーが撒かれた種子の芽吹きを感じる。


 《白い花の咲く季節になれば いつも想い出す事がある / 名前を覚えて / 次を忘れてしまう事》(「梔子」)


 生きていると、憶えてゆく名前は必然的に増えてしまう。手に余るほどに、ただ、その「名前」を憶えたことで彼女は次を忘れてしまうと記す。名前を忘れて、失って次を想い出すのではなく、「名前」に刻まれた白い花、梔子を前に。とても悲しい「過去形」。その「過去形の数々」を包装するには1分ほどの間に膨大なカオスを投げ込まないといけなかったのかもしれない。そのまま、スムースに軽やかなビートに乗る「シーツの中」では、過去の「アメル」にも繋がるR&B的なバウンシーな側面を持ちつつも、世界観では"私と君"を衛星上にメタ的に見ている彼岸性もある。3分を越えて、限りなく沈黙にちかい電子音だけが響く後から、感情が決壊するように、背後のサウンドスケイプも歪みを増し、彼岸の"私"を私が引き摺り下ろす。


 《君は生きてる / 私を生かしてる / 堪らない時だってある / どうしようもない事か》(「シーツの中」)


 3曲目の「コンセント」は、「モンスター」や「MEEK」経由の鋭利で彼女らしい、ざらついたエレクトロニック・パンク。コンセントを前に、プラグで感電してしまおうよというもので、このEPで研ぎ澄まされているオブセッションは、恐慌に陥りかけている感性をせめて音楽で防いでいる、そんなところもありながら、音楽も感性に巻き込まれてしまう、倒錯が生々しい。その、ムードが変わる「"Blind"」。原曲は2002年に既にあった、「恋しい人」。10年前の作品ゆえの素朴さが、このEP全体が持つエッジの中和剤にもなっている。もたるブレイクビート、電子音、宅録を是としてきた彼女のざらついたギターも混じり、「Call Me」、「ねぇ ねぇ」とも似て異なる歌モノ。『Mondo』、『At The Bus Stop』での音響工作、ラウンジ・ミュージックのタクティクスを拡げ、セカンド・フル・アルバム『Mellow Subliminal』の軽やかさと着実にサウンド・ヴォキャブラリーを増やしてきていた轍も視える。


 今の誰もが優しく、憂鬱にならざるを得ない時代で背徳をなぞるのは難しい。何故ならば、背徳/アンモラルに耐えきれない人たちの声が音楽を逆説的に形成する巷間の要請もあるからだ。だから、裏で憎悪や憤怒、嫉妬、悪意がこれまで以上に犇めいている。彼女は、そんな場所から自意識と記憶のリミナル内でかろうじて、正気を保つ。


 《夜の不思議が色に焼けてく景色も / 夢の中でまた憶い出す事はないだろう》(「シーツの中」)


 《街頭の造花 チープな光 隠されていた世界を照らす》(「"Blind"」)


 夜の不思議/色に焼けてく景色、造花/チープな花/隠されていた世界、総て「作り物」の集体。それが照射する悲しみ、憶い出す事はないこと。大文字と本質主義を気取った言葉がしたり顔で、ロラン・バルト的な快楽を示す瀬をロールオーバーして、これまで以上にこのEPでは人間の深層心理に降下してゆく。そこで、この「"Blind"」を新録した意味は分かるような気がする。彼女の視界で、確認できるかろうじての何か。それが隠喩的に「恋しい人」という大文字として描かれるのだが、折れそうな希いの不在がそこには寄り添う。


 《恋しい人 / アナーキーな夢でも / 恋しい人 / 溜め息を鮮やかに弾く / 恋しい人 / 怠惰な喜びから逸れて / 恋しい人 / どうか見届けてよ》(「"Blind"」)


 《恋しい人》のリフレインは相対性理論でいう、遠距離にて霞む。光が遠くに届くほどに遅い速度になること。それを捉えようと試みる行為。スピッツで言えば、「エトランゼ」、「魚」的な、ウミガメの頃にすれ違った感覚を摺り合わせるように。前世、遠く深い記憶に潜るラブソングの残影をかすめ、《昔を忘れて人は行き交う / 夢中だった名前がこだまし始める》のラインで、今、在ること、今、生きることの刹那を嚥下せしめる。


 最後の「幸福な余白」はファースト・ミニ・アルバム「Mondo」に入っている「訪ねる」、「Satisfaction」、「泳ぐ」のマッシュアップに歌が入ったもので、「Mondo」の3曲の印象から離れ、「幸福な余白」という新しい曲になっている。ピッチの少し不安定な彼女の声の揺らぎと衝動と静謐を行き来する捻じれたダイナミクスが合っている。


 工藤鴎芽というアーティストは常にオルタナティヴ/ローファイを標榜し、規範どおりの社会から外れた場所で静かに、ときに激しく音楽を紡いできた。バンド時代を経て、ソロでの内省、量産家としての側面と模索、相応の評価軸が伴わないことに葛藤を抱えていたと思う。


 振り返れば、ファーストEP「I Don't Belong Anywhere」で既に「無所属に尽き」と表明していたわけだが、ジャズ、シャンソン、オルタナティヴ・ロック、IDMを往来し、工藤鴎芽はつまり、改めてディスコミュニケーション、人間が「人間していること」を確かめていたところがある。繋がろうとしても繋がることができない人と人の間に吹く鋭い突風。その突風に傷つきながら、今回は、梔子の花の馨りに耳をすます。


 《雨の通りの噎せ返る様な空気と / 重力に逆らっている》(「梔子」)


 と歌い出されたところで、このEPは"表現物としては"幸せなものになるのが決まっていたのかもしれない。世に溢れる、多くの嘘、悲しみ、賑わい、大文字の言葉、健全なスローガンを背に、梔子の花言葉のように、「幸せ」や「優雅」を彼女なりに描いている訳だから、きっと聴く人によっては、全体を見通せなくても、梔子の馨る気配が届いてゆくのではないか、ささやかに想いを馳せる。しかし、彼女のこれまでを考えても、典雅にして、蠱惑的な毒の誘いに酔えるこのEPもまだ「道程」なのだろう。



(松浦達)

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