カナタトクラス「クウシュの夢」(Swim Free Records)

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 楢原隼人(作編曲/ギター)、寺島慎吾(ヴォーカル/歌詞)、楢原あゆみ(シンセ/コーラス)の兄妹+同級生によって、2009年1月に結成されたカナタトクラス。カナタトクラスの音楽を形容する際の言葉でよく見かけるのが、"ポスト・シティー・ポップ"や"10年代のタウン・ポップ"などで、いわゆる"街/都市"がよく用いられる。


 "ポスト" "10年代"と言うからには"以前"もあるわけだが、カナタトクラスの音楽をより深く理解するには、"ポスト" "10年代"以前である"かつてのシティー・ポップ"について、簡単に述べておかなければいけないと思う。


 "かつてのシティー・ポップ"には、身近な日常的風景、それこそ住んでいる街や行きかう人々、そして周囲の友人や家族など、これらをユーモアな視点から描くことで、"小さな物語"を生きようとする意志の強さがあった。目の前の平凡な風景から面白いと思えることを見つけ、マジョリティーに怯まず、マイノリティーであることをポジティヴに捉える。そうすることで"かつてのシティー・ポップ"は、社会が要請する"常識"や"正しさ"に囚われない自由な空気を生みだすと同時に、"大きな物語"になじめない者たちにとっての"抵抗"を担う側面もあったのではないか。


 しかし、"大きな物語"なき今、"小さな物語"を生きるしかないという"選択の余地なし"な現状があるのもまた事実であり、これが現代に漂う閉塞感と孤独感の一因と化してしまっている。だからこそ、資本主義の恩恵に授かる中流層の風景を煌びやかに浮かびあがらせた一十三十一『CITY DIVE』が、哀しみと希望が複雑に入りまじった切実さとして響くのだろうし、アベック・アベック(Avec Avec)「おしえて」や転校生「東京シティ」といった曲も、いささか抽象度は高いものの、"街"に対する憧憬を顕在化させている。


 これらのポスト・シティー・ポップにある共通点はファンタジー、つまり、届きそうで届かない"幻想"が通低にある。"大きな物語"には戻れず、かといって"小さな物語"は息苦しさをもたらすのだから、新たな白いキャンバスとして"幻想"を掲げるのは、必然だと言えるだろう。現実を超越するのは常に想像力ということだ。そう考えると、ポスト・シティー・ポップの"幻想"が目指すものも見えてくる。それはズバリ、未来である。そのために"幻想"は、"小さな物語"という名の壁を壊すことに執心する。


 カナタトクラスもそういう音楽、ポスト・シティー・ポップである。幽玄なサイケデリアを演出する甘美なギター、抽象と具体の間を絶妙に突くリリシズムは、現代を生きる我々の心に表れては消える瞬間的感情や刹那を描写しようと試みる。この試みはおそらく、カナタトクラスなりに普遍と共感を獲得するためのものだろうが、"愛してる" "好きだ"のと繰りかえし叫ぶだけのオウム・ソングにならないのは、人はそう単純な生き物ではないこと、そして心は複雑なものであることを、カナタトクラスは知っているからでもある。


 決して冷めているわけではない、しかし、あまりに直線的な歌では多くのものを掴み損ね、結果として排他的になってしまう。カナタトクラスのクールで甘い歌は、そこに細心の注意を払っているように聞こえる。できるだけ多くの"小さな物語"を救いあげ、線にして聴き手に提示することで、カナタトクラスは閉塞感と孤独感を打破する。いわば"肯定"こそが、現代においてはもっとも効果的な"抵抗"であると、カナタトクラスの歌は告げているのかもしれない。ついでに言っておくと、そんなカナタトクラスの歌に機微として背後にあるのは、小沢健二だと思う。



(近藤真弥)

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