映画『希望の国』(ビターズ・エンド)

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 忠実な者とは喪のうちにいる誰かである。喪は死せる他者の内在化であり、しかし、それはまた、その反対物でもある。ゆえに、喪を完遂することの不可能性と、さらには喪に服さないという意志さえもが、ともに忠実さの形式なのである。(哲学者ジャック・デリダの言葉より)


 愛的何かというものに何面体かの反射があるとして、それは失ってしまったと(思われる)過程を大切に胸の中に抱えておくようなものを照らすのか、現実を許容していきながら、深い自戒を敷くものに添うのか、これからを予知夢的に仮構化して、青田刈りしていくものなのか、という文脈に沿えば、園子温が近年に向き合ってきた暴力と夥しい血は生きるための愛的な何かと共振してくるのかもしれない。北野武の映画での暴力が突然と、虚無を意味するのと違って、彼の場合はもっと皮膚感覚の内側にへばりつく。


 例えば、『冷たい熱帯魚』での容赦のない悪には理屈や説明付与が不可能なように、『恋の罪』での人間の深いカルマ、血脈に呼応するように、『ヒミズ』での舞台が急遽、被災地に変えられ、原作の漫画とは異たるものになりながら、どうしようもない現実に若い二人が翻弄されるように、ときに過激に、誠実に細部に降りてゆく。彼の撮る映画の過剰さは、最初から無的な何かと併走していないからだと思う。


 更には、埼玉愛犬家連続殺人事件、東電OL殺人事件など実際の事件をモティーフに世代、性差を越えて、登場する人たちは忠実に目の前の現実のエアポケットにはまってしまう。基本、どの登場人物もどこか破綻していて、また、至極、真っ当で、狂っている。言わば、観念的でアート志向でスタイリッシュな、逆に意味ばかりの映画へのアンチ・テーゼを越えた、メタ的な身体性。含みを推し量ろうとしても、画像には不気味に醜態を晒す人がそこに居るのみで、それによって、感知者は鏡としての他者をスクリーンに観るが、そこでの他者の鑑により「私」の断片群が模擬統合されそうな錯覚に陥ることもある。つまり、現場には居ない、自分とは無縁である、という意識が前景化しながらも、プログラム的に内在するかろうじての共通観念を編み上げたときの、受け手の認知を周到に刺激する。


 この『希望の国』は、『ヒミズ』の際に想像できたかもしれない、ダイレクトに、東日本大震災から数年後の日本、しかも、架空ながらリアルにある被災地を巡ってナラティヴが進められる。酪農を営んでいた夏八木勲演じる小野泰彦と大谷直子演じるその妻、恵子を軸に、悲しくも人間の逞しさが浮き上がる。親密な家同士を分かつ避難区域の「線」。線とはつまり、「国境」であり、絶対性でもある。その「絶対性」を内破し、息子夫婦には避難させ、自らはそこに残る。更に、見えない放射能の不安がじわじわと人たちを侵食してゆく様子。現実に肉薄するほどに逃れることのできない難題、差別、収拾のつかない少し先の未来が入り込んでくる。


 ただし、あくまで、彼は最小単位の「家族」にフォーカスを当てる。マクロ大に雪崩れる現実や大局的な悲観、残酷な描写ではなく、家族、親密圏域に居る/居たものだから、静かな感情のひしぎが繊細に鬩ぐ。ゆえに、<外>/<内>という構造が日本の土着に根付いている理由も残影化せしめる。結局、会社や組織、単位(ユニット)、<内(ウチ)>文化の中で、避難所で肩を寄せ合う他者はどうしようもなく、<外>であり、一つの「同じ」箱に数多の「違う」人たちが共存する限界は自明として発現する。


 おそらく、原発事故以降というモティーフを園子温が捉えたという意味で、何らかの過度な描写を求めると、肩透かしをおぼえるだろう、無論、淡々とではないし、確かに静動を往来する描写筆致はさすがだが、不気味なくらい温度が"平熱"なのを個人的に感じる。変わった世の中で、変わらずにいたはずの家族が変えられてゆく外因の中、じわじわと誰もが「おかしく」なり、動的に誰もが強さと適応、抗いを育んでゆく。瓦礫、雪、"(見えない)戦争"というフレーズ、公園の花、子供たち、緩やかな空の模様...全編に渡って視覚的に染み込む移ろい。それを、マーラーの交響曲第10番 第一楽章「アダージョ」が柔らかく攫い、エンディングにエンディングなどないように、この映画は『希望の国』というイロニカルな題目通り、希望的な何かの周縁を衛星のように巡り、人間同士の儚さ、脆さ、強かさをおさめる。


 個人的に、少なくとも「前・近代」以前の、太古の人間がどういう生活を、などのよくある「遡行」として想像力の域内では思い浮かんでも、そこに接点を感じたことがなく、なぜならば、自分が生まれ(てしまっ)たのがもはや近代であり、初めからモダニズムの罠に仕掛けられた場所だったゆえ、理論武装する為に原始性へ回帰する所作はできず、今、夢想するのは、僅かな距離の近未来かWW1以降の世界のうねりの在り方くらいのものでもあるのは事実だ。震災以降、それでも、進むしかない、というのはもう、戻ることができない悲愴との摩擦があり、喪に服しているというときのフィーリングの忠実さは形式を越えて、大文字の「世界」や「博愛主義」を対象化するとしたならば、この『希望の国』で感じたものは今を視ることと同時に、未来を喪に服する完遂性の不可能さだった。


(松浦達)


【希望の国HP】2012年10月20日より全国ロードショー

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