踊ってばかりの国『Flower』(Mini Muff)

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 ふと、このアルバム・タイトルの『Flower』からして想起できるのは、1960年代中盤のフラワー・ムーヴメントになるのだろうか。USの西海岸をベースにしたヒッピー的な潮流。ベトナム戦争への否定を唱え、社会規律内での箍を外すサイケデリックで冷ややかなセックスとドラッグと刹那主義に埋もれたトライヴたちの共帯、または〈外部者〉の同一化への拒絶。


 そこでの踊ってばかりの国。08年にて神戸に結成されてから、無為とメッセージ性の狭間をときにスピッツのように、ときにたまのように、ときにフィッシュマンズのように、とにかく、「ダメになってしまう」感覚をカラフルに楽団的に奏でてきた。賑わしい外れ者たちの中指を立てた音楽の文脈に添えば、2011年に「世界」が観たいと表明してしまったスティグマはどう回収されるのか、といえば、今作にて張り子細工のモラリティに距離を置いて、隙間の多いサウンドにサックス、オルガン、エレクトリック・ピアノ、ファズ・ギター、ホーンの編み込み方にも「メッセージ」が浮き立つように為されながらも、より緻密に至り、カラフルでポップなダウナー性に収斂している。ハバナ・エキゾチカのアルバム名と同じバンド名を付したとき、その後のサーカズムと怜悧なインタビュー内容を読むにつれ、彼らはアシッド・フォークでもなく、楽団的様相を高めてゆくのでもなく、多くのサウンド・エッセンスもとても「ポップ」に嚥下してゆく速度が気になった。


 予め整理しておこう。この約1年振りとなる新しいマテリアル、『Flower』では、下津光史(Vocal,Guitar)、林宏敏(Guitar)、柴田雄貴(Bass)、佐藤謙介(Drums)のメンバーに、キーボードとして中村圭作、ホーン・セクションで加藤雄一郎、柿沢健司、小池隼人という気鋭を招き、前作のセカンド・フル『世界が見たい』からの流れを踏まえながらも、より立体性とバリエーションが増している。サード・ミニ・アルバムという位置付けはされているが、8曲を通して得られる感覚は十二分に重みがある。


 リードとしてPVも公開された冒頭曲「話はない」では、露骨な立て看板とセピア色を通り越したどうにも言えない色味の中、彼らは骸骨、すすき、残像、それらを引き裂くギター・パート、終末観が漂いつつも、《戦争が終わったことを知らせてほしい》と投げかける。サウンドも後半に向け、分厚く重ねられていきながらも、サイケデリックに6分ほどの時間をリープする。そこには、いつかのアニマル・コレクティヴも今のグリズリー・ベアも追いつけないドメスティックな村八分的なフレームから外れた美意識が添えられている。2曲目の「シャンソン歌手」にしても、ボ・ガンボスからソウル・フラワー・ユニオンの血脈を受継しつつも、まったくミュータントとしてジャジーさにサイケ、フォークを攪拌して、シャンソン歌手を夢見て飛び出した女の話を巡って、権謀術数渦巻く夢や恋に汚れてしまう様を軽快にエレガントに筆致する。インタルード的前奏からの「tonight」は夢うつつのバック・ビート下で《僕は死なないなんて言える 平和ぼけ ラスタマン》と言ってしまう。下津のアンニュイなボーカリゼーションも緩急自在になり、表情が豊かになり、バックを支える音も語彙が増え、一聴、「coke」などはとても多くの人に耳に届くポテンシャルもある。


 振り返れば、2010年にリリースされたワンコイン・シングル、カントリー調の軽快な「悪魔の子供」のPVでコメント欄に、かわいい歌や初期フィッシュマンズが動画配信サイトに寄せられていたのを考えると、踊ってばかりの国とは一種のネオテニー性があるのか、とも思うが、個人的にカジュアルで甘い佇まいを装いながら、ささやかな服毒を迫る文脈としてますます日本の中では異質なバンドになっている気がする。


 ダメに"なる"こと、から、ダメに"させる"ことへの転換の兆候がこの『Flower』に見える。彼岸感を潜航させる「Hey-Yeah」、辺境音楽への目配せ、具体的にザ・ポーグスなどの影響を血肉下し、パンキッシュに雪崩れる「切りがない」といい、2011年の多作の反動ゆえか、今年はこうして作品の細部を作り込みながら、聴き手の余白と想像力に対しての容赦のない言葉をぶつけるというのも分からないでもない。そして、最終曲である「セシウム」。陽炎が立ち昇るような向こう側で、フリーク・フォーク的にふわふわとした世界観が浸食してゆく。


《ロックバンドは古い クラブシーンが熱い

息一つする度にセシウム溜めて生きるだけさ》(「セシウム」)


 果たして、捨て鉢の極北のニヒリズムの彼岸から踊ってばかりの国は巷間に供花を投げようとしているのか。そう捉えられるかもしれない側面もあるが、個人的には違うと思う。作品を重ねるたびに濃霧がかかりながらも、くっきりとした彼らの輪郭がそこに視えるように、今の日本のシーンで確実に沈みゆくリアリティを、新しく増えてゆくサウンド・ヴォキャブラリーでストーンドし、そのストーンドした感性に真正がときに含まれることがあるからだ。


 なお、誤謬があったかもしれないことを最後に記しておく。フラワー・ムーヴメントとこの『Flower』を繋げるべきではなかったかもしれない。ベトナム戦争と今の戦時下は違いすぎる。そこでの踊ってばかりの国の今作は、同時代性の真っ当なアンモラルを貫く。



(松浦達)

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