ミツメ『Eye』(Mitsume)

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 ミツメを聴いていると笑顔になる。今を呼吸したくなる。思わず頷いてしまう音がある。なぜ笑顔になるのだろう。なぜ今を感じるのだろう。彼らは特別ハッピーなことを歌っている訳ではないのに。劇的な音を鳴らしている訳でもないのに。でも、今のリアルを強く感じる。ミツメの音は手を伸ばせば触れられそうなほど近くで鳴っている。そう、本作『Eye』には特別なことや劇的なところは何もない。でもそれが、奇跡的なことなのだ。


 東京で結成された4人組の彼らのセカンド・アルバムとなる本作。それは素晴らしいものだ。前作『Mitsume』では生楽器の鳴りが基調になっていたが、本作にはダブがあればシンセ・ポップもある。いわゆるUSインディーの音やアシッド・フォークもあれば音響派へのアプローチもある。それらがサイケデリックで時に現れるファンキーなサウンドと相まって、中毒性の高い作品になっているという、前作以上に音楽性のふり幅が広がった音世界。カラフルなのに朴訥としたさまはキセルやスピッツにも通じる。


 前作からも彼らが多種多様な音楽性を持っていることが窺えたのも確かだ。シンガー・ソングライターとしてのメロディへのこだわりという軸はそのままに、本作ではメロディはよりシンプルになり、自由度は増し、楽曲のアレンジが進歩した。それゆえに彼らはどんな音も吸い込んでしまう。特にシンセとダブ処理された音は新機軸と言っていい。ただ、忘れてはならないのは、様々な音にハングリーでありながら、根底にあるのは音を楽しむという彼らの姿勢。着飾ることなどしない。それがミツメだ。


 音のふり幅が広がったが、ミツメは多様な音楽性に頼らない。頼れるものは自分たちでしかないという意思が見える。そう思わされる音に誰もがグッとくるだろう。気だるい歌声はまさに等身大であり、どの楽曲も等身大。ミツメは無理に高みの昇ろうとしない。妙な私欲はないのだ。だから鳴らされる音のすべては僕らに寄り添ってくる。彼らは言うだろう。やりたいことをやっただけだよ、と。


 歌詞の面でも変化が窺える。前作は過去に思いをはせるものが多かったが、本作では"これから"を歌っている。「過去を肯定できない者は今を肯定できない」とは養老孟司氏の言葉だが、きっとミツメは過去を肯定したのだ。いや、過去を受け入れたのだ。"今"とは、過去の積み重なりによって成り立っているのだ、と。過去が存在することは素晴らしいのだ、と。僕らが今ここにいることは、僕らが過去に選んだことなのだ。そんなことを本作から教えられる。もしかしたら、過ぎたことは見えないのではなく、見ようとしていないだけなのかもしれない。


 そうして思うのは、僕らが今ここにいることは過去があってこそで、それは素晴らしいことなんだ、ということだ。音楽を聴いて笑顔になれる。今を深呼吸したくなる。それは特別なことではないと僕らは普段思うけれど、実は奇跡的なことなのだと本作は今を肯定する。なにも悲観することはない。必ず新しい朝はやってくる。高野寛が歌ったように確かな光が降り注ぐ。そういった気持ちが溢れ出る本作の音を、閉塞感に満ちた時代などと呼ばれる今だからこそ、ぜひ聴いてほしい。セロ(cero)の新譜を聴いた時も思ったことだけれど、これが今の音なのだと思う。



(田中喬史)

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