【合評】CERO『My Lost City』(Kakubarhythm / BounDEE)

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 もう、「ここではないどこか」に移住する必要はないんじゃないか。そんなことをセロのセカンド・アルバムである本作『My Lost City』を聴くと思う。"あの揺れ"が来た後だからこそ、さらに思う。気持ちに迷いが生まれそうになったらこの作品を手に取ろう。迷いなんてあっさりと消えてなくなる。


 東京で結成。現在は3人からなるセロの本作(MC.Sirafuとあだち麓三郎が参加)を聴くのはとても楽しくて贅沢なことだ。中ジャケに描かれているように、素朴で、丁寧で、手書きのはがきのような手触りの、大切にしたい音に溢れているのだから。そうして僕らはセロの音世界にとても自然に包まれる。軽やかなポップスがあればしっとりと聴かせる曲もある。哀感だってある。ビーチ・ボーイズ『Pet Sounds』をお茶の間にもってきたみたいな音楽。実に甘美で穏やかな音世界は幻想的で浮遊感もあるのにしっかりと地に足はついている。だから良い。


 ジャズやフュージョン、ロック、ソウル、ファンク、ヒップホップ、南米音楽など多くの音楽性が交差するが、これらが別個に飛び出てくるわけではなく、セロの手にかかれば「セロの音」になってしまうという驚きに聴き手は衝突するだろう。彼らは音を自分のものにできるし、音を解き放つこともできる。ハーモニーを大事にしながらも自由に音を泳がせ、音の流れを温かい目で見守っているようなメンバーの姿が見える。すべてに湿った表情はなく、楽しそうに弾み、まさに無邪気で自由という表現がぴったりくるサウンドに満ちているから素晴らしい。


 どれもが新鮮に聴こえ、未知への扉を開け広げるというより、扉をすり抜けてしまったような楽曲の数々は無国籍な音の鳴りがある。豊富な音楽語彙の文脈で言えば、もし、前作『World Record』がコーネリアスの『Fantasma』を更新したとしたら、本作は"今の"『Sensuous』と僕は呼びたい。さらにはモーニング・ベンダーズ(現ポップ・エトセトラ)の『Big Echo』に似た音世界だってある。ユーモアを哀感として鳴らせる術だって彼らは持っているし、能天気なところなんて全くない。紛れもない傑作だ、これは。断言する。


 前作はキセルやイルリメ(鴨田潤)、はっぴいえんど、高田渡などからの影響が窺えた。本作ではその影響を、影響にとどめるだけではなく、大きく吸い込んで自分たちのものにしている。それは豊富なライヴ経験の賜物だろう。ライヴとは、オーディエンスとの会話でもあるのだから自分たちの音を見詰めたり、見詰め直すことに繋がる。でも肩の力が抜けた音の数々がとっても良い。僕の音楽、ではなく、僕らの音楽、として鳴っているのだから。


 本作から醸しだされるサウンドスケープは草原と都市の風景といった、ある意味相反するもの。まさに表のジャケットにあるように。そのサウンドスケープに「ここではないどこか」へ導かれそうになるけれど、本作に「ここではないどこか」はないと思う。あるのは「新たなどこか/何か」だ。


 セロは本作において、ひとつのコンセプトである新たなどこか(パラレル・ワールド=もうひとつの現実)を生み出し、新たな何か(可能性という未来)を生み出した。ここにはメンバーがパラレル・ワールドに地に足をつけて鳴らされる音がある。それは、足の裏にざらついたコンクリートの感触を覚えながらも都市の中で生きる人々が見失った灯りと勇気だ。この時代にあって、清々しく、温かい本作が鳴った途端、僕らは背中を押される。まるで急に雨が止んだみたいに。


 《ねぇどうしてそんな顔でスネてるんだ?》(「船上パーティー」)


 「ここではないどこか」という現実逃避から覚めた朝に、自分が今立っている新たな場所でスネていたって始まらない。そういう音が鳴っている本作を前にして、着地点が見当たらない「ここではないどこか」なんて蹴散らしたっていいんだ。都市で生きることの強さとやさしさを照らす『My Lost City』を聴いた後、僕らはどこに行けばいいのか? その答えは冒頭曲「水平線のバラード」で既に出ている。


 《偽物の花を買い / 海に投げて / 見えなくなるまで手を振る》



(田中喬史)









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 今から約8年前、ザ・ストリーツことマイク・スキナーは、『A Grand Don't Come For Free』という作品を生みだした。それはイギリスの生活文化に基づいた世界観を描きながらも、その世界観のなかで語られるストーリーは、ユーモアと再発見で溢れる普遍的なものだった。


 中ジャケも、レジに並ぶマイクの姿を映した写真を使い、アルバムのテーマと同様"シティー"を意識したデザインにするなど、アートワークも含めたトータル・コンセプトとして隙のない『A Grand Don't Come For Free』は、文字通り"時代のサウンドトラック"となる。


 そういえばこの作品、「Enpty Cans」で幕を閉じるが、この曲にはこんな一節がある。


《これは何かの終わりだ/おれがいつまでも続けたかった季節の終わりだ/これから始まるきつい日々の始まりだ/でもこうなるはずじゃなかった季節は終わった/だからこれが本当の始まりなんだ》


 はたして、「Enpty Cans」から8年のあいだに「こうなるはずじゃなかった季節」は終わり、「本当の始まり」はおとずれたのか? 


 詳しくはカナタトクラスのレビューで書いているが、"大きな物語"なき今、"小さな物語"を生きるしかない現実が閉塞感に繋がっているのは確かだし、NHKなどは《プロジェクト2030》と銘打ち、若者は孤独であるとする『つながれない若者たち ~未来ある希望へ~』なる番組を放送したばかり。つまり、「きつい日々」は続いてるということなのだろう。


 だが、虚ろな目つきで未来を見つめずとも、今ここ、目の前に、希望はあるのではないか(そもそも"今"に希望がなければ"未来ある希望"などおとずれない)。前作『WORLD RECORD』から1年9ヶ月ぶりとなる『My Lost City』は、そうした気概を表現する曲が詰まった、享楽的なポスト・シティー・ポップ・アルバムである。


 「大洪水時代」「roof」「マイ・ロスト・シティー」といった、3.11を想起させるような曲も例外ではない。これら3曲は、「マイ・ロスト・シティー」以外すべて3.11以前に書かれたものだが、それでも3.11以降では解釈が変わって聞こえるはずだ。しかしそれをわかったうえで収録し、ポップ・ソングとして享楽的に響かせるセンスと"覚悟"は本当に素晴らしい。

 

 実を言うと、本作を聴いて一番驚かされたのがその"覚悟"。ロック、ソウル、ファンクにヒップホップ、さらにジャズや南米音楽までをも折衷させた本作は"クール"と形容できるが、奥底にあるのは、あくまで音楽を作ることに腐心し、その音楽で我々を楽しませようと汗を流す3人の姿である。


 気になるのは、無機質なビートが耳に残る「わたしのすがた」。「マイ・ロスト・シティー」にて《見逃すな 見逃すな 迫りくる闇と光を》と予言されていた「闇と光」が交わり、10曲かけて築きあげた享楽都市でも、聴き手がいる日常でもない場所を出現させる「わたしのすがた」は、本作において異質な空気を漂わせる。心地よい楽園ではなく、かといって絶望の淵とも違う、今まで見たことがない場所。言ってしまえば、聴き手それぞれがどうとでも捉えられる場所。


 しかし、だからこそ筆者は、「わたしのすがた」は「本当の始まり」になりえると考える。「今まで見たことがない場所」とは言いかえれば、虚飾的な"大きな物語"でも、かつてのシティー・ポップが誇っていた"小さな物語"でもないということだから。


 セロはおそらく見つけたのだ。"未来"へ続く道を。だからセロは、《どうしてそんな顔でスネてるんだ?》(「船上パーティー」)と我々に問いかける。


 目の前にある現実を変えたいと願う者は、『My Lost City』を手に取ればいい。そうすれば、『My Lost City』はあなたを目覚めさせ、一筋の光を見せてくれる。本作はそういうアルバム、まぎれもない名盤、"現在"にさんさんと輝く希望である。



(近藤真弥)

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