BRIAN ENO『Lux』(Warp / Beat)

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ブライアンイーノ『Lux』.jpg

 1920年にエリック・サティが作曲した「家具の音楽(sique d'ameublement)」は音楽とは鑑賞と聴取、意識の導線を敷いてしまうという発想から少し離れ、寧ろ「積極的に聴かれない音楽」を目指したものとして、今でも様々なアーティストに参照にされながらも、BGM、アンビエント、環境音楽、イージー・リスニング、ヒーリング・ミュージック、ラウンジ・ミュージックといったコンセプト群の支える杖のようになっているときさえある。マルセル・デュシャンの言葉を借りれば、かつて「観客が芸術を完成させる」という文脈に沿い、レディ・メイドの発想に近いのかもしれない。


 創作者の主体と受容者の客体の近代化の問題の一つには、主体側が署名を消しながら、客体側が署名付きの音楽を聴き流せる錯転があり、カフェ、ミュージアム、エアポート、はてはベッドルームでの可視化できる音のさざなみをどう再定義するか、という根因に準拠するとなってくると、ブライアン・イーノほど「音楽」のみならず「音響(音の、響き)」そのものへ意識的に向き合ってきたアーティストも居ない気がする。ときに、アーティストやバンドの変革のためのプロデューサーとして参画し、アイデア、アレンジメントなどの幅を広げる手助けをしながら、ときに、個人的な追求心から実験性の高い抽象的な作品をリリースし、また、取材や文章における理論家的な佇まいなど高踏なイメージも保持しながら、その実、パッショネイトな音楽そのものへの傾倒の側面が見えるという多様性。


 この新作にして久し振りとなる完全なソロ・アルバム『Lux』は、1975年に発表した『Discreet Music』、つまり、現在に繋がる環境音楽やアンビエントの流れを組む作品群に並ぶ。要は、カオティックで前衛的というのではなく、音像の穏やかな移り変わりと音響そのものの深みに溶け込める内容に帰一している。


 "Lux"とは、照度の単位である"ルクス"を指し、ラテン語に遡及すれば、「光」という意を指すが、そもそもはイタリアのトリノのヴェナリア王宮内のコリドーのためのサウンド・インスタレーションがベースになっているという。ただ、そのインスタレーションを越えるものを、と際に「光」というコンセプトが必要になり、約75分にも及ぶ壮大な音絵巻に行き着いたようだ。発想や素材群から続編も含意し、この『Lux』にも過去のアンビエント・シリーズの例みたく、曲タイトル名はLUX 1から4までが番号が付されているのみで、それぞれが18分から19分というレングスからして、便宜的な区切りといえる。


 ここまででいかにもな印象を受ける方も居るかもしれないが、2012年の感覚でこの作品と向き合うと、いわゆる、モダン・クラシカルの文脈にも当てはめることができるところもあり、興味深い。ハウシュカ、マックス・リヒター、ゴールドムンドなどの名前を挙げずとも、特に10年代に入って隆盛してきたクラシック音楽とエレクトロニクスやアート性のエクレクティックな潮流との思わぬリンクもあるということ。


 しかし、同時代性という意味でモダン・クラシカルはある種、刹那的な宿命もあったが、イーノ自身も幾つもの作品群やコラボレートの中で決して喝采をおくるべきものばかりを作ってきた訳ではなく、ゆえに時おり、思わぬ同時代性と普遍性を帯びるときがある。そういう意味で、『Lux』は今の耳で聴くと、なおさら、モダン・クラシカルの刹那性とも差異が伺える不思議な作品だと思う。簡単にいえば、分かりやすいメロディーなどのフック・ラインがほぼなく、細やかな電子音の粒からヴァイオリンなどの弦、ピアノなどの組み合わせの妙と隙間の多さ、絞られた情報量が表出しては消える、空気をかろうじて揺らし、照らすように。三楽章だけの休符で組まれた音楽「4分33秒」が今や多くのアーティストたちによって手掛けられ、聴かれるようになったとも解釈できる中でのイーノの今作は賑やか過ぎる瀬に、アーティスト精神に則り、静寂を預ける音楽として機能するのかもしれない。



(松浦達)

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