カーネーション『Sweet Romance』(P-Vine)

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《ぼくらはパレードの夢を見ている》 (「Station」)

  緻密に作り込まれた構成から現代技術に即した洗練された風景を翻訳機にかけてゆくと、耳で物語を読む音楽の性質もよりデジタルなゼロか、ゼロじゃない何かか、という判断を至急に迫られることが増えている。試聴でジャッジして、BUYボタンを押せば、ダウンロード、また、配送手続きがすぐに取られる。

  これをして、ベンヤミンのパサージュ論的な痕跡を辿れば、高度化された資本主義社会の複製価値の複製化を是とし、集団が持つ「内なるもの」へのトポグラフィックな通過とは相性が良いように思える。但し、一方で、カセット・テープ、アナログ・レコーディングにこだわり、「音」の鳴り方から今を見つめるアーティストも増えている。滲みとくすみ、その瞬間に混ざる息吹を個々たる「外なるもの」へ届けるべく。

  なぜか、今年になって個人的に、ダウンロードしたものをMP3プレーヤーで聴きながらも、改めて音楽をステレオで、ときにアナログ・プレーヤーでヴァイナルをひっくり返したりして聴くことが増えたのは自身にとっての大切な時間には「手間をかけたい」という自己制御だったのかもしれない。完全にアルヴィン・トフラー的な第三の大波、「情報」と秒単位で対峙しないといけない今における、知っているか、知っていないか、をすぐに試される磁場へのささやかな手間という抗いとでも言おうか。

  SNSやネットはあらゆるアンテナと、ときには思考停止と結びつき、例えば、Twitterにしてもフラットに生きていたら接点も、ましてや、会うこともなかっただろう人を同じタイムラインに浮かび上がらせる。それはそれで世の中の見渡しが良くなった、とするには楽観とも思えてもしまう。より審美眼と知性、経験値は試されている気がするからだ。フリーミアムの先での価値相互理解の深甚な喰い違い、シェアリングの果ての元たるソースの影響力の肥大化への寄与。

  カーネーションも今や、日本でも屈指の長いキャリアを誇るバンド、いや、組織体になり、90年代を主にした《日本コロムビア》期のシングル、アルバム毎に披露されるユーモアと過去の音楽への敬愛、トッド・ラングレンやアンディ・パートリッジ、またはフィル・スペクターからブライアル・ウィルソン、愛すべきひねくれたミュージック・フリークスたちへの意識に満ちた時期の華やかな作品群へは少なくない数いるだろう方と同じように、個人的に想いも尽きない。ガーデン・シティー・ライフを生きるための多くの恋や屈折、ときに夢を描くために必要なのは数えきれないレコード、文学、書物だった。例えば、それは、00年の「恋するためにぼくは生まれてきたんだ」のユーフォリアと切なさの極点に視るのは平易なのは言わずもがなかもしれない。さらに、メンバーが脱退するなど、骨組みだけになり、ロックンロールの深みとポップ・ミュージックの弾みに賭ける極み、生きることや哲学的な思索、ラブソングの再定義を突き詰めだす03年『Living/Loving』を分岐としたその後の流れも美しい。
 
  気付けば、「大人の音楽」という囲いで、過去の、さらに、今も現役で活動するアーティストやバンドを特集するコーナーやカテゴリーも増え、リマスター、ボックス・セット、ヴァイナル、新譜も並べば、需要と共存してノスタルジーもポスト・コロニアル化されているきらいもあるとも言われる。おそらく、これには当時、手に入れられなかった何かを取り戻すための仮構化したフィーリングも含まれると思うが、良かった(かもしれない)時代/記憶と少しばかりの現代の情報量からの、一歩引いた場所での静かに結われる少子高齢化とカルチャーの斜陽下の日本における残照。でも、それは、悪くないとも思う。秋の風景を想い出せば早いように、斜陽のとき、影は長く伸びる。その伸びた影によって、早めに灯りだす街燈で、遠くからでも夜道で人は違う誰かを知ることができる。電子上ではなく。

  直枝政広氏(Vo,G)、大田譲氏(B)の二人体制になっての路線、ビターでスイートな風合はまさしく、多くの轍を踏んできたからこそ分かる「大人」としての懐の深さを追求し、それはある種、神経症的にまで忙しい時代への疑義もときに含み、我が道を常に進む彼らの頼もしさもあったが、新しい聴き手を確保できるのか、という懸念もなきにしもあらずだった。ただ、約三年振り、通算ではオリジナル・フル・アルバムとして15作目を数えるこの『Sweet Romance』は聴き手を選ばないどころか、幅広いリスナーにも届く内容になっているのは感慨深い。

  昨年11月にリリースされたリード・ミニアルバム的な『UTOPIA』では、新作を構想していた際に起きた震災を経て、失いかけた歌を取り戻すための光とロマンスが通底し、長谷川きよしの「もうあきてしまった」のカバー、さらに新録の梅津和時氏のアルト・サックスが響くインストゥルメンタル「女川」、彼らの過去曲の中でも重要な「Edo River」の江ノ島、虎丸座でのライヴ・バージョンが最後に収められるなど、特殊な内容だった。なお、今作には、渡辺シュンスケ氏、武田カオリ女史(TICA)、山本精一氏の参加したマジカルなポップ・センスが冴えた表題曲の「UTOPIA」のみ入っている。

  直枝氏、大田氏、近年のサポート・ドラマーの張替智広氏の三人を軸にしながらも、今作はとてもカラフルだ。冒頭の「Spike&Me」から意表をつく大谷能生氏の客演によるサックスとスリリングなラップ、と直枝氏のあの芯の通った声が艶めかしく絡まり、藤井学氏のピアノ、ハモンド・オルガン、フェンダー・ローズが行間を彩り、クールなテンションを保つ。次曲のストレートでカーネーションの18番ともいえる切ない疾走感を持ったロックンロール「I LOVE YOU」は1992年の『天国と地獄』の際にはあり、そのときのカーネーションのモードとは合わないとのことでお蔵入りした曲で、しかし、今の直枝氏の声とてらいのない歌詞は染みる。ダウン・トゥ・アースでブルージーな4曲目「なんかへん」ではソウル・フラワー・ユニオンの奥野真哉氏のシンセ、梅津和時氏のサックスも奥行きを与える。

  今作は、多数のゲストの参加、客演があるのか、バラエティーにも富んでおり、しかし、どれもカーネーションだからこそのポップネスが通底している。8曲目のホンキートンク調の「口笛ふいて」も長い生を重ねてきたがゆえの直枝氏の深い詩情に溢れている。《急がないでくれ もう疲れたから きれいな水なら浴びるほどあるよ》と紡ぎ、《昔の仲間が死んじまうことが 一番くやしいことだね やっぱり》と素直な感情を吐露し、そして、かわいい誰かと口笛をふいて、陽のあたるところを目指すというもので、リクオのピアノも加わり、より聴き手の心の琴線に触れる。ベースの大田氏の歌う「未来図」も非常に恰好良くも、センチメントでポップな一曲。

  やはり、11曲目の7分半ほどの「遠くへ」はクライマックスだと思う。寓話性と現実を行き来するような世界観、滲む過去、あなた。敬愛するボブ・ディラン的にときに崩し歌う直枝氏のボーカルはしかし、凛と前を見る。ありがとう、と、さよならを告げ、《また会おうよ》と約束を投げる様は感動的だ。ラストの、6曲目の「Bye Bye」のリプライズでは、岡村みどり女史のオーケストレーションと岸野雄一氏のミックスが幻惑的な余韻が今作全体の音楽の芳醇さを香り立たせる。

  アナログ・レコーディングされたのもあり、音が耳にも非常に優しく馴染む。ブックレットの背表紙には、光のあたった森に妖精のような女の子が立っていて、常に、女の子(GIRL)を巡ってのロマンスを切り取るメタファー越しに現実を濾過してきた直枝政広氏の博覧強記な音楽語彙と「恋」を軸にした文学的な要素も高まり、50歳を超えても、あの胸を締めつける声も健在なのも嬉しい。カーネーションはやはり、日本でも稀有な存在だ。デジタルで簡単に修整解析されない、アナログのスウィート・ロマンス、それは悪いわけがないだろう。

《この切なさは100年はつづく だって変だろ今日もぼく舞い上がる I Love You》
(「I LOVE YOU」)


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