くるり『坩堝の電圧』(Victor)

坩堝の電圧+.jpg 本作のリード・シングルにあたる「everybody feels the same」での目醒ましい疾走感は既存のファンのみならず、新規のファンにも堅実な衝動を与え、それを踏まえての7月31日の東京、代々木公園でのフリーライヴでは、新旧曲を出し惜しみなく、今のくるりを体現してみせた。更には、各メンバーのTwitterや公式HPを使って積極的なパーソナルなことを伝え、石巻へ訪れ、チャリティー・シングル「石巻復興節」を披露するなど多岐に渡る動きまで含め、より身近に自分たちの存在を世の中に預けていたところがある。ステージ上で居る自分たちも同じように色んな想いを抱え、日常をおくっているということ。

 先行で公開されたアルバム収録曲「chili pepper japones」ではこれまでにない遊び心も見せていたが、『言葉にならない、笑顔を見せてくれよ』からはオリジナルとしては約2年振りとなるこの『坩堝の電圧』は19曲というボリュームもさることながら、くるりという組織体が90年代後半から、ひたすらロールし、築き上げてきたものを昇華する側面も明らかに出ている。簡単に振り返ってみるに、アルバム毎に彼らはコンセプトやその時の衝動や想いを刻印してきた。ブルーズ、サイケデリック・ロック、フォーク、ポスト・ロック、ダンス・エレメント、民俗音楽、プログレッシヴ・ロック、マージービート、パワーポップ、クラシック、ルーツ・ロック、ソウル、カントリーなどを参照点、軸にしながらも、都度の機動力と横断性をもって日本のロック・シーンでも常に異彩の存在感を放ってきた。UKにプライマル・スクリームというバンドが居るが、彼らも作品の度に全く音楽性が変わる。くるりも似たようなところがありながらも、しぶとく続けてきた中、この『坩堝の電圧』は岸田繁、佐藤征史の初期からのメンバーの色が強く出たというよりも、改めてバンドとしてのくるり、吉田省念、ファンファンの一丸となった作品に収斂しているのが興味深い。

 京都を拠点にして、今の四人のオリジナル・メンバーになってからのくるりとは、元来の京都を表象するバンドに帰還したと言えるのかもしれない。京都の内壁に帯びたカウンター精神、オルタナティヴな気骨。それは、観光資源として多くの方の訪問を受け容れながら、決して奥には踏み込ませない伝統と、誇りを示唆する。ただし、京都はその表層の地下で坩堝の中で煮えたぎるような熱量を持ったバンドやアーティストが行き交っている。大学やクリエイターが多いのもあり、学生たちの夜な夜なのセッション、ブルーズやサイケ・ミュージックのあまたのアンダーグラウンドでのやり取りは凄まじい。そんな熱を背景に、くるりは、京都からイロニカルに「東京」という曲でメジャー・デビューしている。京都から東京への距離感。文化差。それを筆致してきつつ、ときに中心/非中心を越境してきながらも、今回のくるりは、「京都」の冠詞も「東京(中心)」への距離感よりも、そういった意味性を越え、総花的に多くの人たちに音楽の魅力そのものを押し広げたものになっている。

  ただ、例えば、付箋を貼るに、彼らが主催する京都音楽博覧会というものがある。これは、跋扈する夏フェスとは距離を置く特殊なものであり、少し説明を加えておくと、2007年から立ち上げられたもので、9月の秋分の日に行われるフェスである。当時、京都、しかも駅近くの市内でこういった大型の野外イヴェントが行われること自体が異例だった。なぜならば、京都は土地柄もあるが、騒音規制の問題やロックという音楽へのバイアスもまだあるからだ。ゆえに、周囲の近隣者の協力や多くのクリアランス事項を経て、アコースティック・セットで、音量を絞り、行なうという条件が付き、更には午後7時には音を取り止めるとの中で、粛々と進められてきた。初年度は、本当にかなり音量が絞られ、しかも、降雨下での厳しい状態で、観るこちら側もうまく咀嚼できなかったところがある。しかし、回数を重ねるにつれ、独自の暖かさと緩さが丁度、梅小路公園という京都の人たちが日ごろから愛する広い公園の持つ牧歌性、蒸気機関車館との交わり、まったりとした空気感が魅かれる人たちを巻き込み、ときに意表をつく演歌歌手の石川さゆり、くるり・ザ・セッションでの過去メンバーとの試みなどラインナップの妙も含め、今や、1万人以上を集め、かなり早くにソールドアウトをしてしまう規模のものになっている。新幹線や飛行機など使って、遠路から来る人も多く、近くの団地から顔を覗かせて様子を見ている人も居る不思議な温度が漂っている。

 さて、実際、今作はあたかもビートルズの『ホワイト・アルバム』のような、実験様相とシリアスさが並存し、多くのバンド、カルチャー、自らへのオマージュとメタ的なパースペクティヴに溢れている。冒頭からザ・ストロークス「ジュースボックス」のような駆け抜け方と、しかし、どうにも物悲しい雰囲気の漂う「white out(heavy metal)」。アルバム・タイトルの"るつぼ"という言葉が含まれた4曲目「taurus」はサイケな質感と、メロディーの転がり方が柔らかい。じわじわと抑えられた展開から、《いつまで経っても フリー どこまで行っても フリー わからないふりしてあげようよ》という箇所が優しく響く。何かの"ふりをする"、というのはくるりそのものが過去、自覚的に行なってきた行為であり、それが模倣、パスティーシュ的な角度から評されもしたが、ここでは"わからないふりしてあげよう"という訴え、問いかけに変わっているところが特徴だと思う。ときに、音楽の中に潜り込んでしまい、受容者への壁抜けが出来にくい時期、それでも、余白から受容者は彼らの捻くれた要素を解析しようとしていたイロニカルな関係性があったとしたら、難しいことは難しいまましか伝わらないのではなく、その難しいことの伝え方の根本へ戻った感触への転回。元来、ボーカリストとしても独自の味わいのあった吉田省念がメイン・ボーカルで歌うリリカルな「dog」、全編中国語詞で歌謡性を帯びたファンファンのボーカル曲「china dress」、ベースの佐藤征史が歌う、往年のアンダーワールドの曲名から取った打ち込み曲「jumbo」と各メンバーが舵を取る曲群も味わい深く、更に、岸田がメイン・ボーカルを取っていても、コーラス・ワーク、ハーモニーからそれぞれが立体的に結びついている。反面、崩れ落ちそうなリリシズムと現実と向き合った胸を掻きむしる曲もある。「soma」は、相馬の町のことを指す、静かにステップを踏むように情景描写の美しい唄。《相馬の空は そう いつまでも いつまでも 君を映す》、《ここは どこまでも 遠く青い 嗚呼 相馬の町だよ》のフレーズは切なく煌めく。ディーセントな岸田の歌唱が涙腺を誘う「沈丁花」では、息子に問いかける形で、思い出が全部割れたことや希望の全ては朽ち果てたこと、咲くはずだった沈丁花の代わりにお前が生まれたことを静かになぞる。「のぞみ一号」でのピアノの音色とメロウネスが浮かぶ、「男の子と女の子」、「The Veranda」系譜ながらフォーキーな力強さとか細く折れそうな双極性。

  思い出と涙。幾つものキータームで捉えられると思うが、この『坩堝の電圧』に滲むトーンはその二つも大きい気がする。「思い出」とは各々、内奥に抱えていて、言葉や何かで伝えることは違えども、固有のものだ。良いものばかりではないだろうし、悪い思い出に囚われ続ける人も多いと思う。「涙」もうれし涙という表現もあるが、苦い涙、思えば、初期のくるりに「蒼い涙」という曲があったとおり、何らかのメタファーならば、切なく傾ぐ。これまでの彼らだったら外されていただろう、遊び心や無邪気な曲もあるのも必然なのだろう。今、何かに絞りきってしまうには視界は窒息してしまいがちになる。そんな視界を窒息させないように、この19曲での思い出を巡る周縁は前へ進むための聴き手の内面を刺激し、涙を拭う。7分を越える大曲であり、フィナーレを飾る「glory days」で、《ときおり 思い出せよ なくなってしまった過去も 誰よりも知りたいはずの 未来も》と綴り、くるり自身の曲「ばらの花」や「ロックンロール」などからのフレーズ群が散りばめられるのも感慨深い。

 思い出があるから未来へ進むことができる。そして、涙があれば、また未来を思い出せる。

 

(松浦達)

 

【編集注】9月19日リリース予定

retweet

トラックバック(0)

このブログ記事を参照しているブログ一覧: くるり『坩堝の電圧』(Victor)

このブログ記事に対するトラックバックURL: http://cookiescene.jp/mt/mt-tb.cgi/3326