ツジコノリコ+竹村延和『East Facing Balcony』(Happenings) 

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efb.jpg  かつて詩人の谷川俊太郎はこう言った。「純粋に言葉の美しさを求めるのなら言葉に意味を宿してはいけない」と。確かにそうかもしれない。音楽表現に話を移せば僕らは音楽に何か意味を求めてしまう場合が多いのだろうし、意味が宿っていると思う場合が多々ある。

  しかし、フランス在住のシンガー・ソングライター、ツジコノリコとドイツ在住のエレクトロニック・アーティスト、竹村延和が創作したアルバム『East Facing Balcony』は平和も反戦も愛も表現していない。自分すら表現していないと感じる。そこに意味付けはなく、いわば音楽によって音楽を表現している。無論、それは矛盾した言い方だ。しかし、音楽は音楽しか表現できないという意思が本作に内在されている。それゆえの美しさは谷川俊太郎の詩と結ぶことができるだろう。

 もともと竹村延和は個人名義の作品で電子音楽の匿名性を穏やかにころころと可愛らしく鳴らすことができた。すっと感情の昂ぶりが抜けていく繊細な音色、透明度の高い潔白な音の数々は、自我を押し付けるところは一切なく、音が寄り添ってくる感覚があった。そう、無垢だった。子供のように。これらはそのままツジコノリコにも言える。同じ感覚を持つふたりのコラボレーションは自然というより必然だった。

 本作はレイ・ハラカミと矢野顕子によるヤノカミと比べることができ、ヤノカミがジャンルの融合というよりは、人と人との出会いによって生まれる創造性だったことと同様に、本作もまた、出会いの音楽としてある。『East Facing Balcony』を聴いて思ったのは、もはやジャンルの融合に価値を見出す時代は過ぎ去り、人と人との出会いが音楽を生み出していく時代が主流になってきているのだということだった(アニス&ラカンカや高野寛+伊藤大助がまさにそうだし、ヒップホップやジャズ、リミックス・ワークに関して言えばきりがない)。

 「Kirei」での、ゆっくりと弧を描くように歌われる歌声とコーラスには聴き手の意識を静かにさらっていく幻想的な響きがあり、コーラスが重なっていくたびに圧迫されるというよりは楽曲が弛緩していき、決して昂らず、落ち込みもしない歌の温度が辺りに広がっていく様が肌で感じることができる。アルバムを通して室内楽的な鳴りが丁度いい具合に品よく貫かれている。管楽器やウッド・ベースがわずかにジャジーな香りを与え、ポスト・クラシカル、ハウス、テクノ、IDMを思わせる音色が加わるが、何かのジャンルに流れる様子は見受けられず、驚く程ごく自然にジャンルの無効化として本作は存在している。

  ジム・オルークやフェネスを彷彿させる音響を生み出したうえで幼げな声で詠うポエトリー・リーディングやラップは、言葉が音としての美しさを持っていることを聴き手に思い起こさせる。しかも言葉が持っている意味はするすると抜け落ちていくという感覚を本作は鳴らしているものだから、噛み砕かずとも全ての音が聴き手にすっと入り、違和感を覚えるところが一切ない。

 本作には意味付けされていない、あるいは意味付けできないがゆえの、音楽の潔白性という美しさがある。もちろん資料的な文脈で語るなら、この作品に意味付けはいくらでもできるだろう。しかし『East Facing Balcony』の根底にあるのは、この音楽は音楽以上のものには成りえず、純粋な音楽表現ということなのだ。その音の鳴りと大衆音楽としての強度に不思議と嬉しくなる。今年の重要作だ。

 

(田中喬史)

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