七尾旅人『リトルメロディ』(felicity)

七尾旅人『リトルメロディ』.jpg  音楽とは不思議なもので、ロジックや言語では捉えきれない複雑なものを捉えることができる。だから筆者はよく「音楽とは魔法みたいなもの」と言うのだけど、そう言うと友人のライターや編集者には、「物書きとしてお金もらっておいてそれは言っちゃダメでしょ(笑)」と、軽くバカにされてしまう。

 そもそも、数多くいる音楽家のほとんどは、言語化できない曖昧かつ複雑な心情や感覚を表現するために、言葉だけでなく音やメロディー、さらにはリズムといったものを総動員して音楽を鳴らす。なぜならば、豊穣なものであればあるほど、直線的な表現では捉えきれないからだ。つまり音楽とは、言葉では説明できない複雑なものを複雑なまま、言語や理論といった壁を飛び越えて届けることができる手段であり、だからこそ、多くの人が音楽という文化に夢を馳せ、愛してきたのではないか。

  と、柄にもなくロマンチックがすぎることを言ってしまったが、前作『billion voices』以来2年ぶりとなる『リトルメロディ』を聴くと、そう思えてならないのだ。既にいくつかのインタビューで七尾旅人自身が語っているように、本作は3.11の影響が反映されたアルバムである。3.11直後、七尾旅人は友人のタブラ奏者であるユザーン(本作の13曲目「アブラカダブラ」に参加している)と一緒に福島へ行き、そこでライブを行うなど、3.11以降の七尾旅人は、考えるよりも行動を優先する姿勢が目立った。こうした行動の結果として生まれたのが、本作に収録された曲のなかでも屈指の名曲「圏内の歌」だ。正直、この歌が本作に収録されていると知ったときは、『リトルメロディ』は重苦しい雰囲気に支配された作品なのではないかと想像したのだが、聴いてビックリ。これまでの七尾旅人のアルバムでは一番ポップに響く作品で、メロディーもより親しみやすくなっている。「シャッター商店街のマイルスデイビス」に代表される前作の攻撃性は影を潜め、歌詞は平易とも言えるシンプルな言葉で綴られている。

 「きみのそばへ」と名付けられたノイズから始まり、放射能が降り注ぐ環境のなか、表向きは笑顔を浮かべながら生きる母親をテーマにした「圏内の歌」が続くことで、日本は変わってしまったことを聴き手は自覚させられるわけだが、後に続く曲は、男性の視点からカップルの一夜を描いたような「サーカスナイト」、男女の儚いラブストーリーを思わせる「湘南が遠くなっていく」といった具合に、日常の匂いを醸しだす"ささやかな歌"が多い。確かに本作には悲しみが横たわっているが、それは悲しみすらも受け入れ表現しようとする七尾旅人の真摯な姿勢に所以するものであり、3.11以降の現実を表現者として生き抜くため、出来るだけありのままの自己表現をしようと試みた結果ではないだろうか。少なくとも、本作の悲しみのなかに絶望や諦念は感じられない。

  それにしても、ウェンディー・カルロス風のエレクトロニック・サウンドにレイヴ・シンセ、さらにはガイガーカウンターを想起させる音が入れ乱れる「my plant」や、不穏な焦燥感を漂わせる「劣悪、俗悪、醜悪、最悪」「busy men」といった小品に混ざるかたちで、"ささやかな歌"が"在る"というのは興味深い。本作に収録されている小品の多くは、先述の3.11の影響をヘヴィーな形で反映していると思うのだが、そうした圧倒的な現実のなかに、小さいながらも美しい"ささやかな歌"は"在る"ことを、七尾旅人は伝えようとしているのではないか。それは言い換えれば、"人(ささやかな歌)"は"生きている(在る)"ということなのかもしれない。そういう当たりまえすぎて誰も歌わなかったことを、七尾旅人は本作において歌っているような気がする。あからさまな政治的メッセージもなければ、シニカルな風刺的表現もない。言ってしまえば、七尾旅人が3.11以降見つめてきた現実を表現しているだけとも言える本作から聞こえてくるのは、そんな身の丈から生まれた歌である。しかし、その歌がどんな言葉よりも力強いメッセージとなって、いまだ曖昧模糊なムードに覆われた現状に鳴り響く。こうした光景、それこそ「リトルメロディ」のように、ひとつひとつの"小さなメロディ"が集まり"大きなメロディ"となる帰納的光景が、本作にはある。

 

(近藤真弥)

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