BLUR「Under The Westway」(EMI)

|

BLUR.jpgのサムネール画像

  アジア人として初のノーベル文学賞を受賞したインドの詩人、思想家たるラヴィントラナード・タゴールの詩に、「歌ふべき歌一つなし 捧ぐべきもの一つなし 思ふこと みな滞りぬ 君をただ欺き来たりぬ いつの日か生命満たして この生命の供養(そなえ)をはらん」(『タゴール詩集内でのギーターンジャリ』、渡辺照宏訳、岩波文庫)というものがあるが、彼らのこれまでの長い道筋を振り返ったときに、脳裏によぎってしまった。

 ブラーというバンド名はもう当たり前に通っているが、元々はJ.D.サリンジャーの小説に出てくる主人公の名からとったシーモア(Seymour)というバンド名を取っていたそのスタンスどおり、英国が持つ特有のシニシズムとセンス、または階級制度の名残りがいまだに色濃く残る場所であくまでロック・バンドとして曲や表現、パフォーマンスを届けてきた。ミドル・クラス以上は別枠にしても、何らかの成功の証ではサッカー選手か、ロック・スターか、そんなアフォリズムはなぞらなくとも、記憶に新しい彼らの2010年のドキュメンタリー・ムービー『No Distance Left To Run(A Film About BLUR)』で見る景色に沿い、《London's So Nice Back In Your Seamless Rhymes, But We're Lost On The Westway(軽快なライムの上で ロンドンって本当に素敵でさ でも 僕たちはウェストウェイで道に迷ってしまったんだよ ※筆者拙訳》(「For Tomorrow」1993年。セカンド・アルバム『Modern Life Is Rubbish』 収録)から、明日にしがみつく("Hold On For Tomorrow")ための残影を感じることはできると思う。

 今さらだが、そのドキュメンタリーに触れると、時系列の映像とその当時の彼ら四人の回顧インタビューからメンバーの子供時代の家、学芸会でのデーモン・アルバーン、デビューしてすぐイギリスではアイドル的な扱いを受けていた中、初アメリカ・ツアーで洗礼のように受けた疲弊と消耗。また、ブリットポップ時代の寵児としての佇まい、クール・ブリタニアのイコンゆえの狂騒と伴う頽廃、グレアムが淡々と自分の憔悴について語る場面、そこでも、スマートにクールな四人の在り方、メディアを巻き込み、大きなニュース沙汰になった1995年のシングル「Country House」と舌禍と蓋然的に仮想敵に置かれてしまったオアシス「Roll With It」の同日発売でのチャート対決、それに結果的には「勝つこと」によって負のイメージを背負うようになってしまった苦悩、ドラッグに塗れた自分に対して「Beetlebum(寄生虫)の意味ってわかるだろう?」とうそぶくデーモンのうんざりした顔、1997年の『無題(blur)』時期の暗中模索、1999年の『13』時期でのカオスとそこから産まれたブレイクスルーとしてのゴスペル「Tender」、メンバー間での認識の喰い違いやグレアムがスタジオに来なくなったり、内部でじわじ・墲ニ崩壊していく様、オリジナル・アルバムとしては最後となる2003年の『Think Tank』でかろうじてブラーという記号を保ちながら、なかば必然的に解散していかざるを得ない覚悟で歩んでいた荊の道、アルカホリックに蝕まれるグレアム、そして、感動的以外に形容できない2009年のリユニオンとライヴ、幼馴染みだったグレアムとデーモンの和解、随時のシーンで出てくるフレッド・ペリー、ハイド・パークでの凱旋と、込み上げるものが多い内容になっている。

 マッドチェスターの影響からサイケデリアに飛び込んだデビューから、ビートルズ、キンクスというトラディショナルなブリティッシュ・ビートとザ・フー、スモール・フェイセス、ザ・ジャムのモッズ・バンドへの敬意とジュリアンやトレイシー・ジャックス、アーノルド・セイムなどキャラクターを作り、一篇のナラティヴを描く形式で英国(ロンドン)を見つめ直すときのカラフルなまでのフレーズ群とポップネス、ハイブロウな生活を送るいけ好かない男(Charmless Man)に向けての挑発とキャッチーなパフォーマンス、更には自己言及やUSのオルタナ・eィヴ・ミュージックやエクスペリメンタルな要素を強めていき、デーモン自身の好奇心が民族音楽までをも巻き込みながらも、ブラーは日本でも長く秀でて愛されるバンドの一つであり、何度もの来日公演を果たしてきていたが、2009年のリユニオンでの花は英国に捧げられた。そして、この2012年、オリンピック・イヤーのロンドンでクロージング・セレモニーとしてヘッドライナーをつとめる彼らは再び戻ってきて、英国≒世界に花束をおくる。

 今回、そのロンドン・オリンピックという契機があったにしても、実に、グレアムがクレジット、参加し、デーモン、アレックス、デイヴの四人の新曲としてはほぼ12年振りとなるのがこの「Under The Westway」と「The Puritan」になる。これらは、7月2日の夕暮れ時の曇り空、ロンドン市内のビルの屋上において生演奏で公開され、その後、すぐに全世界へ配信されることになった(注:7月10日現在、彼らの公式HP〈http://www.blur.co.uk/〉でその様子の一部は見ることができる。)。まさに、Westway(ロンドン西部を貫く高架道路のことを指す)が見渡せる意図的な演出。そこには、立派な中年になった四人が居て、鍵盤を前にするデーモン、ジャケットにハーフ・パンツでベースを弾くアレックス、ポロ・シャツ姿でドラムを叩くデイヴ、あの何とも言えない眼鏡越しのシャイな眼光と憎めない存在、グレアムはときにコーラスも添え、ギターを弾き、あくまでシンプルなバンド態勢で「Under The Westway」は、大袈裟ではない、切々と胸を打つバラッドで美しい世界観をなぞっていた。そこから、デーモンが小さなアコースティック・ギターに持ち変えての軽快な「The Puritan」では"ラララ"のリフレインが如何にも彼ららしい絵があった。「Girls and Boys」のピコピコ感よりさらにシンプルな形での曲。四人とも相当な修羅場を越え、帰還してきたかのようなよれよれの服で草臥れた姿とも見えるが、その四人が並ぶことで、保たれてきた紐帯があったのも確実に分かるもので、この感慨は不思議に涙腺を打った。

 思えば、まさかの今年のザ・ストーン・ローゼズのリユニオンも感動的なものであり、それは幸福な時間を巻き戻すノスタルジアではなく、現在進行形で曳航している。その一方で、このブラーのオリジナル・メンバー四人での2曲の新しい唄は、曇り空のロンドンの風景がそのまま今の世を反射しているかのようで、その曇り空の響きを昇華させる。「Under The Westway」での"Hallelujah"というフレーズが印象深く―。

 ブラーは、ようやく結成21年目をして「成人」を迎え、キャリアを網羅し、デモやレア・トラックまで収めたボックス・セット『Blur 21 Box』(「Under The Westway」も収録)をリリースし、今のところ、8月のウォームアップ・ギグ的なUKでの数本、デンマーク、スウェーデン、ロンドンのハイド・パークのギグの後に、予定もネクスト・アクションも刻まれていない。

 音楽とは、いつでも再生をすることができる瞬間の美学だが、バンド、ライヴというのは当たり前だがその「瞬間」にしかない。今度、この四人でのブラーを生で観ることができる機会は分からない。無論、キャリア、クロニクル、彼らに纏わるものはどんな形でも追いかけられる。だからこそ、ブラーというバンドが新曲を出す行為を過剰に捉えるのでもなく、"続いている、今を生きている存在としての彼ら"を十二分に知っている人の胸にも、最近、知った人の胸にも改めて刻まれることに越したことはないと思う。メトロノームのリズムに合わせて、同時代を色んな環境、場所で年齢、性別関係なく生きる人たちに寄り添うような2曲は、過重に時代を背負う訳ではなく、じんわりと彼らが彼らたるレゾンデートルを証明する。

《I'm Waiting For That Feeling, I'm Waiting For That Feeling, Waiting For That Feeling To Come(僕はあのフィーリングを待っているんだ、待っている あの感覚が来るのを ※筆者拙訳)》(「Tender」)

 "あの感覚"を今の四人のブラーは備えている。その片鱗がこの2曲にもある。

 

(松浦達)

retweet