きゃりーぱみゅぱみゅ『ぱみゅぱみゅレボリューション』(Warner Music Japan)

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きゃりーぱみゅぱみゅ『ぱみゅぱみゅレボリューション』.jpg きゃりーぱみゅぱみゅ待望のフル・アルバム、その名も『ぱみゅぱみゅレボリューション』。きゃりーに"レボリューション"なんて・・・と思いながら聴いたわけですが、結論から言うと、きゃりーの時代を読みとる批評眼が発揮された計算型ポップ・アルバムである。

 プロデュースはもちろん中田ヤスタカ。音楽面ではこれまでの活動で培ってきた経験を前面に押しだしている。歌謡曲やヨーロピアン風味、さらには"ダサい"の一歩手前でとどまる絶妙なチープ感。これらが交わったエレ・ポップは遊び心であふれている。それでも乱雑とした印象がないのは、バランス重視の丁寧なプロダクションを施し、職人的とも言えるコレクティヴな音像を作りあげているから。派手な音色に隠れがちだが、本作では中田ヤスタカの細かい芸や技が随所で効いている。

 そして歌詞。本作における歌詞はかなり重要度が高い。語呂合わせ重視の無意味に近い歌詞の根底には、"日常"とされる風景がある。《交差点》《街》が登場する「PONPONPON」をはじめ、《竹下通り》《クレープ》というまさに原宿な「ぎりぎりセーフ」。他にも胸キュンラブソング「スキすぎてキレそう」など、現実的風景が目に浮かぶ歌詞が多い。これはおそらく、実在性が低いヴィジュアルを持つきゃりーと対するように書かれているからだ。この二項対立のあいだに、感情から遠く離れたきゃりーの歌声は"余白"として存在し、聴者の感情移入を誘発する。その結果、郊外に住む聴者には大都会への憧憬を抱かせるアーバン・ポップとして、都市部に身を置く聴者にとっては親近感を匂わせる街のサウンドトラックとして機能する。これは、中田ヤスタカがきゃりーの本質を理解し、きゃりーも自身のヴィジュアルと歌声の差異によって生まれる効果を知っているからこそできる芸当だ。

 しかし、ここまで書いてきたことができるだけなら、数多くの凡百ポップ・ソングとなんら変わらないし、本作の方法論そのものは新しくない。ではなぜ、きゃりーぱみゅぱみゅは多くの人を惹きつけるのか? それは"無意味"をひたすら追求し、身にまとっているからではないだろうか。

 多くの人が疑問を抱きながらも、消費主義はいまだしぶとく生き残っている。消費主義のもとでは、社会によって"必要(とされるもの)"と規定された物が凄まじいスピードで消費され、自分にとって価値のある大切な物であっても、社会から"無意味"の烙印を捺されたものは容赦なく排除される。

 そんななか、「私には似合わないと決めつけない。着たい服なら堂々と着ることが大切」(『TVホスピタル』2012年7月号のインタビューより)と語るきゃりーは、あくまで自分の価値観を判断基準にしている。そこには"流行"もなければ"迎合"もない。あるのは自らカルチャーを生みだそうとする気骨だ。きゃりーが追求していることは、"これがなければ生きていけない"とされるものではない。しかし、"あれば楽しく生きられるもの"ではある。だからきゃりーが次なる表現手段として音楽を選んだのは必然なのかもしれない。音楽もまた、"あれば楽しく生きられるもの"だから。そんなきゃりーの姿勢は偶然か否か、本質的意味を過剰なまでに要求される現在においてオルタナティヴな輝きを放っている。"過剰な意味"には"過剰な無意味"を、というのは言いすぎだとしても、きゃりーが身にまとう"無意味"が、ある種の痛快さを伴いながら多くの人に広がっているのは事実だと思う。

 

(近藤真弥)

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