キリンジ「涙にあきたら」(Nippon Columbia)

|

KIRINJI.jpg キリンジがメッセージ・ソングというものに対峙するときに、彼らの立ち位置を示すかの切ないバラッド「エイリアンズ」的なパサージュを想わざるを得ないことも含む気がする。ヴォルター・ヴェンヤミンに引っ張られるまでもなく、パサージュとはアーケードを意味するフランス語であり、元来の意味は「通り道」というコンテクストで捉えたらいいのだろうが、そこを抜けて、都市の遊歩者たる彼らが2012年のリリース形式として配信限定で、二ヶ月連続で、5月の「祈れ呪うな」、そして、この「涙にあきたら」を表象するのは大きい。

 日常が非=日常的な変異を起こす現今の日本において、まるで今回のブライアン・ウィルソンがプロデュースした生存するオリジナル・メンバーでのビーチ・ボーイズの新譜『That's Why God Made The Radio』とのシンクロを示すかのような、絶妙なポップ・ソングの輪郭をなぞるこの曲では、清冽で優しい曲になっており、そこにレイド・バックもトゥー・マッチな険しさもなく、キリンジ期間限定特設HPで作詞・作曲を手掛けた堀込泰行氏がコメントを寄せている、"いろいろと不安定な世の中ですが、友人は大事にすべきだなと思ってつくりました。(中略)友人や知人と一緒にいるときに聴いて、楽しい気分になってくれたら嬉しいですね。もちろんお一人様も大歓迎です"という脈絡に沿い、あちこちで生活をおくる通り道を弾むスキップの歩幅に合う曲になっている。常に良質なシティー・ミュージックに添い、XTC的な捻くれをも保ちつつ、絶妙なエレガンスを固有の美意識と時代を読解する意識でコーディネイトして、配信のタイミングとフィジカルの間の往来に拘っていたキリンジの動きとは察するに、パッケージングとの差異内で何より電波が通じる限り、先に曲を出来る限り、多くの人たちに届けたいという意思背景が伺えた。この「涙にあきたら」はいまだに多くの辛苦、艱難、またはかろうじてネットでの繋がりを抱えている人たちに向けて、実店舗に足を運べない人たちの傍らにラジオ、スマートフォン、iTunesなどを通じて響く何かを希求したのではないか、とも感じる。

 「祈れ呪うな」の時点では東日本大震災、福島原発の事故への「自戒」といささかシビアな認識とともに、曲への想いを綴っており、今回もその延長線でもあるのだが、バランスとしてのこの「涙にあきたら」での跳躍感は心強い。"生き生きとしたもの"を辿るプロセスでリファレンスされた「都市」のための音楽とエレキ・シタールを含んだ多少のサイケな彼ららしいアレンジと、まるで音/楽を二分化して、「楽」の部分にフォーカスをあてた背景には個人的にラヴィン・スプーンフル、ゾンビーズ、アソシエーションなどのお歴々のエッセンスの凝縮とコーラス・ワークの透明度がいつかのaikoを招いた「雨は毛布のように」的な口ずさみたくなる旋律を保持しつつ、今の温度にしっかりと共帯する。音楽が備える役割期待の一つに日常を持ち上げる力学があるとしたら、ここでの彼らが描く《涙にあきたら いつでもここにおいで》や《楽しいお酒を呑むのだ》というフレーズの断片は確実にあまたのニュースや現実に涙が止まらなかったであろう方々の胸の奥にじんわりと染み入り、気持ちを和らげるとも思う。誰もが静かに大切にする家族、仲間やフレンズとともに、この曲は相互主観の端境を渡り、涙には飽きることはないが、飽きた涙が停まったときに、取り戻せるのは前向きな遡行を描くようなラインがある。

 そんな前向きな遡行が照らし出す涙には、塩辛さや深い重みよりも甘やかな毎日の背を押す。その毎日には、様々な境遇の人たちが居ても、そろそろ涙に飽きた「ここ」での待ち合わせ場所が待っている。

 「涙にあきたら」の傍らで、今日、そして、明日、ずっと先が雨でも星のない夜でも、皆で遊び、小さな灯りを燈せるようなものであればいいな、と願いたい。

 

(松浦達)

retweet