中村一義『対音楽』(Five D Plus)

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中村一義『対音楽』.jpg フランスの作家ロマン・ロランは多方面への活動で世界的にも知られているが、彼は知性と行動の限りを尽くして「穏やかで平安たる世界」を願った一人であり、例えば、「ジャン・クリストフへの告別」にあるように、若者、次の世代への前進とバトンを渡すことにも命を尽くした。そのロマン・ロランが"傑作の森"という言葉を使い、1804年の「交響曲第三番」からの10年、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの中期と言われる時期では困難たる人生と時代の中で古典派の保つ様式としての美しさとロマン主義のエクレクティックなダイナミクスと藝術の力が持つ強さを「音楽」というのを通して、顕そうとした。なお、どうしてもクラシック音楽家とは、宮廷や貴族などの支えの下に成立する、せざるを得なかった中でベートーヴェンは音楽家とは、芸術家であるというスタンスと大衆へ拓かれたものとしての意味合いを持つ作品を届けだした嚆矢であり、その矢の先に、今、2012年になっても、エリーティズムではなく、誰でも近付ける一つとしてクラシック音楽はあることになり、自然とその旋律に魅せられるアーティストやリスナーは様々な分野から絶えない。1804年の「交響曲第三番 変ホ長調『エロイカ(英雄)』」と対峙して、紡がれた3曲目に収められている「きみてらす」は柔らかく、優美な、でも、「ここにいる」を状況が裂いた部屋で歌っていたときの彼とは違う、すぐそこにいる、近さがあるスロウな佳曲。交響曲第三番自体がフランス革命内のナポレオン・ヴォナパルトに捧げられたのともに、その後の彼の皇帝即位に対して憤怒をしたと言われる歴史過程を経たのを踏まえ、今の温度で《遊ぼうよ、ベートーベンとボナパルト...。遊ぼうよ、いつでもいるよ。》(「きみてらす」)と透き通った彼の声で二人の融和を促す。何かを信じて産み落とされた作品はその時点で、瞬間を閉じ込める。ゆえに、その瞬間に枝葉が付いていったとしても、すぐそこにある。

 中村一義というアーティストがベートーヴェンの交響曲第1番から第9番に向き合い、100s時代を越えて、ソロ名義ではほぼ10年振りともなる作品をレコーディングすると聞いたとき、想像が出来なかった。彼は「入り込んでしまう」と、何処までも行ってしまうアーティストであり、『金字塔』から『太陽』、そこから『Era』という作品で「時代」に向き合う飛距離に僕は戸惑った過去もあり、どういったものになるのか、分からなかったからだ。自分自身で総ての楽器を重ね、ビートルズへの愛あるメロディーとあのハイトーン・ヴォイスと幾層にも含みのある歌詞、人懐っこくこもったサウンドながらも、孤然とした雰囲気―それを天才と称する音楽ジャーナリズムの短絡よりも空は広く、普通に太陽を浴びて、光を感じたかったのだと分かり、個人的には一気に親近感を持つことが出来た1998年の『太陽』はだから、当時、巷間としては"天才"たる中村一義との差異でバズというのは起きたとはいえなかった。メッセージ性と即効性が強く求められていた日本では曖昧なポジションにあったが、今回の『対音楽』にはその『太陽』に近く、あくまでも違う温度があるから、不思議なメレテ・タナトも感じる。つまりは、擬死化の技法として今年の2月にリリースされたシングルの「運命」で刻まれる撥ねるビートの中で字を変え、繰り返される《思い出せ》、《想い出せ》というフレーズ。それは彼にとって、デビュー出来なかったら死ぬとの想いで始まったキャリア、その後の100sのメンバーとの出会い、ユニティが出来上がる中での「原点」とは何かへの問い-「世界の」を付けないといけなかった彼の生まれ育った小岩のフラワーロードへ戻ったときに、「世界」を外すために、中村一義自身が中村一義たるものを想い出す/思い出す作業がこの『対音楽』にはちらほら見えるからだ。ベートーヴェンとの"VS"という大風呂敷よりも、アコースティック・ヴァージョンで既に披露されていた「愛すべき天使たちへ」には「交響曲第八番 ヘ長調」が寄り添い、静かにストリングスが響くように、膨らみと簡素な彼の信念が詰まった9曲+1曲になっていると思う。

 言わずもがな、表現者のみならず、あの大震災から色んなものが変わり、自覚するものが増えたのは止むを得ない。エネルギーの問題、マスメディアの構造、自然の脅威、人為的なシステムの脆弱性、生きる人たちの強さや弱さ。

 ここ、クッキーシーンで書いた「ウソを暴け!」のアルバム・ヴァージョンから始まり、全体を聴き通すと、そのテクストも参考にしてほしいが、王様は裸で居るという事実への接近をほどくが、その王様には名前はなく、その王様に名前をつけるのはこれからの世代なのかもしれない、というのは遠からずという気がした、ということだ。中村一義というアーティスト・ネームへの訴求力はある一定の層にはあっても、今のユースはどうなのかという意味で、僕のような初期から彼を知っている人のみならず、これからの世代のための作品の側面も伺えると思える。アイドル・グループと無機的なビート、ボカロなどに占められた日本のチャート・シーン、緩やかな音楽と呼ばれるものの斜陽、パッケージング文化の終焉の寂寥も漂う空気を憂うみたいなことは、僕はしたくない。ペシミズムは重ねていけばいくほど、メランコリアを導引し、呼吸をしににくする。やはり、彼も「銀河鉄道より」で表明する《誰もが唄っていた愛を、希望を、まだ憶えているのなら、あの銀河鉄道を呼んで。消えることのなかった愛を、希望を、また唄えるのなら、君とあの時を行こう。》(「銀河鉄道より」)みたく、行くということの大切さを尊重したいと思う。

 なお、軽快で「ペニーレーン」的軽やかさにビーツを刻んだ、「おまじない」にしてもそうだが、46分ほどの総体に詰め込まれたエントロピーは高いが、存外、スッと聴き通せるのは彼の優しさも見える。難解なものに、もっと好戦的なものにしようとすればできたはずだが、小難しい純文学よりも漫画を愛する姿勢、それはポピュラー・ミュージックとして『対音楽』が普通に多くの場所で聴かれることを希う証左でもある。実質的な本編のラスト曲、「交響曲第九番ニ短調(合唱付き)」と組まれた「歓喜のうた」での讃美歌では不在たる実在、実在たる不在へ(In-der-Welt-sein)―世界内存在たる裸の自分を置き、空に舞い上げる。

《ちゃんと生きるものに、で、ちゃんと死んだものに、
「ありがとう。」を今、言うよ。「ありがとう。」をありがとう。この歓びを。》
(「歓喜のうた」)

 ちゃんと死んだものへの感謝の意。もう、そこにいないものにも歓びを捧げること。無論、ちゃんと生きるものへの歓喜をこの曲で示し、2011年6月23日にライヴで収められたボーナス・トラックの「僕らにできて、したいこと」のピアノと彼の声だけの4分ほどの曲が讃美歌とは対比して、鎮魂歌として残響する。この曲はちなみに、ピアノソナタ第八番の「悲愴」がフックされている。つまり、こういうことだ。

《『忘れない』を忘れずに。》
(「僕らにできて、したいこと」)

 現代を生きて、生き残った彼は忘れないを忘れずに、今こそ「僕は僕として行く」背景にこれまでの世代/これからの世代への深慮が可視できる。『対音楽』には、タイトル通り、音楽に真摯に対しながらも、音楽を通じて、いつからか変わってしまった、変わらざるを得なかったなんとなく灰色がかった世の景色を受け止めながらも、晴れ間を探す、そんな凛たる美しさと優しさがある。あの日を忘れないでいられるように、と。

《ほら、君がいて僕がいる。世界はそれが起点なのに。》
(「流れるものに」)

(松浦達)

※本作は2012年7月11日リリース予定

 

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