BIO TOLVA『Chiaroscuro』(Novel Sounds)

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BIO TOLVA.jpg 「奇作」という表現ほどこのアルバムにふさわしい言葉はないだろう。しかし、このアルバムは一聴した瞬間に、「これはなんて奇妙なんだ」と思うようなものではない。むしろストレートなポップ・ミュージックとして広く受け入れられても全くおかしくはない。「一体どこが奇妙なのかわからない」という声すらこのアルバムを聴いた人々の口から聞こえてきそうですらある。だが、やはりこのアルバムの魅力を語る際に「奇妙」という言葉を外すことはできない。普通に聴いていると、北欧の名だたるアクトたちによる音楽との程良い類似を見せながら、それを巧みに組み合わせることによって作られた音楽である、というように簡潔にレジュメする事ができそうだ。聴者はそのようにしてこのアルバムの内容から、各々が体験してきた様々な種類の音楽を連想するだろう。我々はその音の由来を探るために、自分たちの記憶を探ってゆく。しかし、その記憶の探求は断ち切られる運命にある。それは他ならぬアルバムから放たれる音楽によって断ち切られるのだ。確かに聴いたことがあるはずなのだがそれを探ろうとしても必ず失敗してしまう。聴けば聴くほどその音が不可解な物に感じられてしまい、最後にはゲシュタルト崩壊を起こす。なぜこのようなことが起こってしまうのか、その原因を考えてゆくことによってこのアルバムが持つ不可思議な魅力を伝えたいと思う。

 オフィシャル・サイト/CD帯のコメントにも書いたようにビオ・トルヴァのデビュー・アルバム『Chiaroscuro』のサウンドは「記憶の衝突劇」と呼ぶのにふさわしいものとなっている。シガー・ロスの深遠な音響、散りばめられるムームのような細やかなサンプリング、ゴールドムンドの静謐な旋律といった北欧のアーティストの様々なサウンドがそこから聴き取れるだけではなく、スティーブ・ライヒのようなストリングスや、時には映画音楽のような壮大なスケール感をそこに見いだすことも可能だろう。ここにあるのはビオ・トルヴァ―これは牧野圭祐のソロ・プロジェクトである―が体験してきた音楽の記憶であり、それがある時はそのまま抜き出され、ある時は複雑に絡み合って構成されている。そしてビオ・トルヴァのオリジナリティ=奇妙さはその記憶の抽出/再構成する方法にこそある。

 記憶とは極めて曖昧なものである。自分がかつて体験したことがある物事を思い出す際、我々はそれを再構成する手段を持たない。どんなに正確に記憶を掘り起こしていってもそこにあるものは、我々が空想で足りない部分を補ったものであり、真実とも虚構とも言えないものだ。思いだそうとすればするほど記憶の迷宮に入り込んでゆき、そこから抜け出るために、欠如した部分を虚構によってまた埋め合わせる。この繰り返しによって記憶は虚構に浸食されてゆく。

 ビオ・トルヴァは他のどんなアクトにもましてその曖昧な記憶を追い求め、それを頼りに音を作り出した。だから虚構に浸食された記憶が放つ煌めきと歪みが、このオリジナルで圧倒的に「奇妙な」音楽を生み出しているように感じられ、それがゲシュタルト崩壊の原因となっている。そういう意味において崩壊寸前と言っても良いこのサウンドは、世間的には「北欧的なサウンド」「ポストロック」「ポスト・エレクトロニカ」などと呼ばれるであろうこのアルバムが、それらが該当する凡百のアクトと全く異なる場所に位置していると考えるのはそのためである。

 先ほど「崩壊寸前」と書いたが、それはあくまで「寸前」であり崩壊に至る前にギリギリの状態でつなぎ止められている。ではビオ・トルヴァの音をつなぎ止めているものはなんだろうか。それは6組のゲスト・ミュージシャンたちによるボーカルによってである。ここでは彼らの名前を挙げるだけにとどめておくが、Junko Minato、Bertoiaのmurmur、Anriettaのkokko、唯一の男性ボーカルであるusのShota Osaki、《Kilk Records》所属のアーティストであるukaやferriたちの歌声によってこのアルバムに納められた楽曲たちは崩壊を免れている。というよりも、そのヴォーカリストたちへの信頼が牧野にこのようなトラックを作らせたのだろう。彼らによるヴォーカリゼーションと牧野の手によるトラックの幸福な出会いがこの極めて奇妙な楽曲たちを優れたポップ・ミュージックとして昇華させている。

 「奇妙」「崩壊寸前」などと少々物騒な言葉でこのアルバムを言い表してきたものの、このアルバムが最終的に我々に与えるフィーリングは極めてポジティヴなものであるということを最後に書き留めておきたい。それは田中佑佳が手がけたこの素晴らしいアルバム・ジャケットにも現れているように、雨の中、華麗に踊り続けるようなフィーリングだ。このアルバムを最後まで聴き通したとき、頭の中に浮かんだのは「雨に唄えば」のジーン・ケリーが土砂降りの雨の中で、ダンスをしながら「雨に唄えば」を唄うあの、有名な一場面だ。そしてその歌詞の一節が見事にこのアルバム『Chiaroscuro』の気分を反映しているように思えたので、最後にその部分をここに挙げてこのレビューを終わらせたいと思う。

《Come On With The Rain / I've A Smile On My Face / I Walk Down The Lane / With A Happy Refrain / Just Singin' / Singin' In The Rain》(「Singin' In The Rain」)

 

(八木皓平)

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