赤い公園「ランドリーで漂白を」(EMI Music Japan)

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赤い公園「ランドリーで漂白を」.jpg 赤い公園の歌は、抽象度が高い曖昧な詩的言葉ではなく、リスナーのなかに明確な景色を創造する言葉で綴られている。例えば、「透明なのか黒なのか」収録の「塊」は、《お前が見てるのは 羽織ものにくるまった 三十六度のKATAMARI》といった一節からもわかるように、"お前" "私" "あなた"といった人称を随所に上手く挟むと共に、抽象度が低い具体的なキーワードを織り込むことで、リスナーを曲の世界観に引きずり込んでいる。

  一方で、言葉に対する執着は、あまり感じられない。極論を言えば、さだまさし「北の国から~遥かなる大地より~」よろしく、鼻歌だけでも、赤い公園の音楽は成立しえるものだ。かつてモグワイは、「僕ら、政治的なバンドなんだ」(ロッキング・オン1999年5月号のインタビューより)と発言したが、モグワイの音楽には、具体的なキーワードとしての言葉は存在しない。だが、そんなモグワイから政治性を嗅ぎ取ったマニック・ストリート・プリーチャーズは、モグワイと共にツアーを回り、それをリスナーもすんなり受け入れたことからも、言葉なき音楽が、メッセージ性が強い言葉としてリスナーに受け入れられることは明白だ。だからこそ、自身の声を加工し、匿名性に身を潜めるジェームズ・ブレイクが鳴らす、"聴き手という主体"が反映される"非言語的空間"を志向する音楽が受け入れられる。

 そして、"聴き手という主体"が反映されやすい言葉を歌っているという意味では、赤い公園も"非言語的空間音楽"を生み出す資質が備わっていると言えるが、彼女達はあくまで、みんなのうた的な、わかりやすいキャッチーなポップ・ソングを作ろうとしている。しかし、そのポップ・ソングは、絶望的にぶっ壊れている。どんなに甘かろうと、どんなに叙情的だろうと、どんなに親しみやすかろうと、彼女達が生み出すポップ・ソングには、必ず不協和音やノイズが混ざってしまう。この事実を、ポップ・ソングを作る才能がないことの証左と取るか、言葉という器には収まらないほどの膨大なエネルギーを抱えた、とてつもないバンドであると捉えるかによって、赤い公園に対する評価は変わってくることを、前作よりもいささかポップ寄りになった「ランドリーで漂白を」は、明らかにしている。

 本作を聴いてあらためて思ったのは、彼女達が相対性理論顔負けの綿密な演奏技術とバンド・アンサンブルを持っていること。初聴して抱いた印象は、「相対性理論じゃん!」だったりする。そして、彼女たちが本作で明らかにしたもうひとつの顔は、自分達は壊れていると自覚しながらも、あくまで真っ当なポップ・バンドを目指しているということ。だが先述したように、彼女たちのポップ・ソングは、一般的とされるそれとは程遠いぶっ壊れたものだ。そして、彼女たちをより個性的なバンドたらしめている言葉についても、ぶっ壊れていると言わざるをえない。とはいえ、グロテスクな言葉が多かった前作と比べたら、本作は現実に寄り添った言葉をチョイスしている(赤い公園にしては、だが)。それでも、《私は私を殺してやりたくなるのさ》というフレーズが、衝撃的にカットインされる「何を言う」が本作を締めていることからも、真っ当になりきれない彼女たちの本質が窺える。

 しかし、真っ当である必要はないと、筆者は考える。直線的な感情が重視され、言葉がぞんざいに扱われがちな今だからこそ、赤い公園のように、衝動を言葉で伝えようとする存在が必要なのではないだろうか。正論が必ずしも道を切り開くとは限らないように、彼女たちのぶっ壊れたポップ・ミュージックは、我々の感覚を拡張し、新たな領域に辿りつく可能性を秘めている。

 かつて細野晴臣は、「言葉が仮死状態にあった」と語り、インストゥルメンタル・ミュージックを選び取った。この選択は、後のYMO結成に繋がるわけだが、そのYMOの影響を受けているテクノも、言葉ではなく音で語る音楽だ。不思議なことに、速すぎるテクノロジーの発達に追いつこうとするとき、我々は言葉ではなく、音で語ることを選んできた。言語は、感覚の代弁であるという点において、タイムラグからは逃れられない宿命にあるだけに、先人たちの選択は妥当だと言える。

 そして現在、ツイッターやフェイスブックといったSNSが一般層に広まりつつある今、テクノロジーの発達や、行きかう情報も加速度的に速くなっている。それによって我々の感情も、目まぐるしく変化し、過剰な混乱をきたしている。その過剰な混乱を手っ取り早く処理できるからこそ、脊髄反射的メディアであるツイッターが日本でも定着した。だが赤い公園は、意味が説明できないでいる"もがき"に身を置きながらも、過剰な混乱を手っ取り早く処理せずに、歌が伴うポップ・ソングに昇華しようとしている。そういった意味で赤い公園とは、美しい混乱の芸術である。

 

(近藤真弥)

 

 

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