0.8秒と衝撃。「バーティカルJ.M.ヤーヤーヤードEP」(Act Wise / Evol)

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0.8秒と衝撃.jpg  《あきらめたその時から 僕らの目は白くなり 月影満ち 魔法みたいに 君と踊って笑う》(「ボンゴとタブラ、駆け抜けるリズム。」)

 アメリカの詩人で著名たるウィリアム・ブロンクが、基本的な「前提」に置いたものは世界の本来的な秩序、真理もないということであり、つまりは自明を自明とせず、危険に入り込むことに非合理たる合理を置いたゆえに、彼から見えていた世界はとても静謐なのだと推察できる気がする。何故ならば、彼の中に既に静謐の訪れがある訳であり、だからこそ、賑やかな孤独を全うする可能性を待備せしめるからだ。0.8秒と衝撃。の全てのソングライティングを手掛ける塔山忠臣氏の中にはブロンクに似た何かがある気がする。ツイッター上でのハチゲキ・ファンの過剰なまでのフック・アップと衝動的なツイート、ときに大言壮語に似たツイート。ただ、そこに連続線というよりはどうにも彼のTLに「賑やかな孤独」を感じるのは僕だけなのだろうか。

 2011年にリリースされたセカンド・アルバム『1暴2暴3暴4暴5暴6暴、東洋のテクノ。』で見せた幅広いサウンド・ヴォキャブラリーとその後のライヴ・パフォーマンスで掴み取っていった確実な集客の過程で、彼らはおそらく孤然たる状態と、思わぬ「孤独な賑やかさ」に巻き込まれていったのだと思う節がある。脊髄反射のように、捲し立てられる膨大な歌詩の量と"唄とモデル"担当の端麗なJ.M.嬢の佇まい、そして、一気呵成な様。「ワーキング・クラス・ヒーローになりたい。」という塔山氏の言葉もあったりもしたが、彼らの確固たる矜持と、巷間での評価の乖離内でまだ"色モノ"としての扱いも受けたかもしれないというバイアスは時おり感じたものの、この「バーティカルJ.M.ヤーヤーヤードEP」は一つの作品として、0.8秒と衝撃。がこれからを進むための一つの塚を作っておきたかった、とさえ察せられる音の重ね方と音響工作の妙、細部まで神経の行き届いたアレンジメントといい、意欲的な内容である。実際に、しっかりとしたステレオで聴くと、ノイジーで性急だけではない、相当に凝られたサウンド・レイヤーに唸らされる。

 塔山氏は以前、取材で《Mute》への偏愛を述べている。イギリスの老舗レーベルでも言わずもがな有名な存在であるが、例えば、アインシュテュルツェンデ・ノイバウテン、スロッビング・グリッスル辺りのインダストリアル/ノイズ・ミュージックの歴史の水脈を持ったバンドが属しているのは言わずもがな、そこからDAFまでを架橋するボディー・ミュージック、伴っての身体反応がダンス方面での直結ではなく、「刺激」に到るサウンドに彼が魅力を感じたのはとても分かる。だからこそ、前作の段階でのアプローチは個人的に、ノイエ・ドイチェ・ヴェレ的な解釈が垣間伺えた。ただ、そこでのディレッタンティズムと貪欲にサウンド・ヴォキャブラリーを増やしてゆく途程で嚥下、咀嚼するまでの短い(と敢えて言うが)時間内で、ラフなもどかしさと狙ったような狂気性が表に出過ぎていた誤配と受け手の誤変換のディレンマもあった。また、ヒップホップ的というよりも、過剰にまくし立てる形式の男女のツイン・ヴォーカルの共層には、踊り念仏的な背景も思わせた。補足しておくに、決して宗教的な意味文脈ではなく、無論、隠喩として捉えてほしいが、念仏とそれを受け取る側にトランシーなものは、基本は、ない(頭の中ではあっても)ものだったが、一遍(いっぺん)はリズムと念仏で身体性への「刺激反応」を促した。となると、彼らの前作での試みはダンス、パンク・ミュージックの遂行条件を果たすのではなく、過度にリスナー、もしくは自分たちに刺激(ビート)を埋め込むための路だったと言えるなら、このEPでは洗練と混沌を反応刺激という錯転から求められた空気感がある。

 この5曲(初回盤にはthe telephonesの石毛氏の「ラザニア」のリミックス盤が付いている。)の振り幅はこれまでになく、広い。現在の最新のアーティスト写真のポップネスと相応するように、先行で限定公開されていたPVの二曲目に入っている「ラザニア」ではバウンシーに撥ねるリズム、ロボ声、語呂合わせ的な歌詞までの拘りとシンセ、電子音の支え方まで拓けたニューウェーヴ的な印象を受ける。だが、一曲目の「NO WAVE≒斜陽"」のタイトルが示すように、1970年代末のNYのアンダーグラウンド・シーンの断片を切り取ったといえるブライアン・イーノが企画したオムニバス・アルバムにして時代の裂け目を表象した『No New York』の因子が根付いている。アート・パンク、ジャンクの一歩前で計算されたオルタナティヴなサウンドが詰まった、そこにはかの今では多面的な方面で活躍するアート・リンゼイが属していたバンドDNAやコントーションズなどが逸脱の美学を魅せていたものだ。この古典から受け取ったイメージを、この曲では現代的なアレンジメントと起伏を付加し、カオティックにギターを重ね、景色を鮮やかに塗り上げる。

 ここで、「コーピング」というフレーズを想い出してみる。臨床心理学で時おり用いられる概念で、ヒトを揺さぶるような出来事、持続的に疼痛を起こしている出来事に対して最初は抗っているが、やがて、その抗いの中でそれに対処を見出すために、虚構的に自分自身の瀬戸際の戦略を編みだしてゆくという営為。だから、「≒」があり、「NO WAVE」と「斜陽」と大文字のタームがかろうじて接合されつつ、ストラグルの果てに《エブリバディ、黙ってないで 狂ってる場合か 生きてるか?》(「NO WAVE≒斜陽"」)と他者性への問いよりも自問自答みたくエコーする痛みに裂かれる。塔山氏自体のパラノイアックな部分と確実にシャーマニックな歌唱の強さを持ったJ.M.嬢が鬩ぎ合うスリリングさがあり、音楽的な意味では違うものの、ザ・キルズなどの男女混成ボーカルが魅せる辺りの頽廃の品格も忍ばせる。マッド・サイエンティストが成し得た加速感の裏にはPILもマーク・スチュアートの残影も確かに掠める。コンテンポラリーでは、スレイ・ベルズなどとの共振も見え、ノスタルジックな遺産に囲まれているばかりではない頼もしさもある。

 なお、今作で最初に出来た曲で、塔山氏自身も納得しているという3曲目の「ボンゴとタブラ、駆け抜けるリズム。」は、一聴、これまでの彼らの18番のような曲のようで、ジャーマン・プログレッシヴ・ロックの萌芽への距離感が可視化出来る。同時に、曲名にあるように、ボンゴ、タブラのトライバルなリズムが立体的に音像を膨らませている。そして、4曲目の「あなたがここにいてほしい」はポリシックスのような電子音がアクセントになったスピード感を持ったまま、最後となる5曲目「大泉学園北口の僕と松本0時」では、ブリティッシュ・サイケ・フォーク沿いにセンチメントをなぞる。このバランスだから、EPという形態を取れたのだとも思わないでもない。そして、このバランスでEPというフォーマットで世の中にリプレゼントすることで、おそらく次のフル・アルバムでのバズに備えていこうとする自分たちへのプレッシャーにもしていると推測できるだけに、まだ飛躍し続ける0.8秒と衝撃。のポテンシャルを探るための待機作ではないだろうか。

 最後に、このEPを聴くと、曲名に含まれた「斜陽」に引っ張られた訳ではないが、太宰治の掌編『待つ』の女性を想起させる。誰かを待ちながらも、誰かの訪れを待つという訳ではないこと、しかし、確約たる未来を待つよりもずっと真っ当な待ち方。彼らはこのEPで更に待たせる人たちを増やすことになると思う。期待か不安かは明言せずとも。

《OK 僕だけ FOLLOW ME》(「ラザニア」)

 

(松浦達)

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