TALK『Waltz For Feebee』(Dead Funny)

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talk.jpg 「こんなバンドがシアトルから現れるなんて!」と書いたのが、シーポニー『Go With Me』だとすれば、「こんなバンドが熊本から現れるなんて!」と書かざるをえないのが、この6人組のポスト・ロック・バンド、トーク。

 このトークの初の全国流通となる今作『Waltz For Feebee』は、昨年リリースされた同名の自主制作盤に新たに3曲を追加し、インディー・レーベル《Moorwoorks》系列の福岡の《Dead Funny Records》からリリースされた初の作品でもある。

 トークは、2009年3月に3人から結成され、2010年12月に日本のサブカルチャーにおける権威の一つ「路地裏音楽戦争」内の「邦楽若手ロックバンド特集」で堂々たる1位を飾り、昨年末には京都のシューゲイズ・イベント「Kyoto Shoegazing Party」(いきなり余談であるが、このイベントの企画者の一人は青野の高校時代の後輩でもあった)にモノシズムなどとともに出演した...なんてことは、彼らを検索にかけたらすぐに出てくる情報なので、クッキーシーンとして彼らを取り上げるのは、今回が初めてであるが、あえてそういったバンドのイントロダクションは乱暴ながら割愛させていただきたい。

 CDを入れて、プレイボタンを押した瞬間に、スピーカーから溢れ出る荘厳な賛歌のようなアルバム同名のリード・トラックのイントロ、轟音のギターにグロッケンシュピールとキーボードの響きだけで、ヴォーカルの緒方賢征が歌い出すまでの間に一気に北欧、それもアイスランドやデンマークといったメジャー・シーンとアンダーグラウンド・シーンが交差しているような地域の古びた教会に迷い込んだような錯覚さえ覚える。さらに、その轟音の中からおもむろに歌い出される緒方の言葉は、深い憂いを帯びた歌声とともに叙情的な響きを持っている。デンマークのザ・レイト・パレードの陽性の曲を思わせるサウンドと評したところが伝わりやすいだろうか。

 例えば、これが前回、僕がレヴューさせていただいたスリーピーのような北海道や東北地方といった極寒の地域から出てきた音楽ならば、まだすんなり飲み込める。しかし、冒頭にも書いたように彼らは熊本のローカル・シーンから生まれたバンドである。非常に残念なことであるが、僕は現時点で熊本に足を踏み入ったことは一度もない。それどころか、九州に入ったこと自体、大昔に福岡に行った一度しか覚えはない。その上で九州のシーンと言えば、例えばナンバー・ガールや椎名林檎と言った非常に骨太なアーティストが生まれる土地という印象がどうしても強い。が、彼らは、この1曲目「Waltz for Feebee」を一聴しただけで分かるように、九州男児(男女混合バンドなのでこの呼称も厳密にはおかしいが)のような骨太さはまず感じさせない。むしろ、極北の地から鳴らされているかのような氷点下の憂いが荘厳なまでに世界を覆い尽くしているようだ。

 それはレイト・パレードの他にも英国や北欧のカイトやシーベアーといったポスト・ロック・サウンドを思わせるリード・トラックだけではない。恋人の死をイメージして作られたという、マイ・ブラッディ・ヴァレンタインの「Sunny Sundae Smile」を思わせるタイトルの「Sundae Flip」では、『Flora』期前後のアートスクールのような豊満なコード感と、同じくアートスクールでの戸高賢史を思わせる緒方の歌声がどんどん残虐なまでの轟音のギターの内に入っていく様が見られるし、「Aquarium」でも同様にサビで憂愁のコーラスが交差し《投げ捨てたスノードーム》という象徴的な言葉(緒方はTwitterにおける青野とのリプライの返し合いにおいて漫画家の今日マチ子の作品をフェイバリットに挙げていた。それから考えると今日マチ子の漫画、『センネン画報』において同じく象徴的に出てくるスノードームからインスパイアされて出て来た言葉かも知れない。なお緒方は詞中では心中の隠喩を用いているとのことである)が舞う様でも分かる。アコースティックの繊細なコードとグロッケンシュピールが見せる、揺れる世界が切ない「A Certain Letter」でも、そうだ。

 どの曲をしてもまるで、沖縄を除く日本で最南の地方の島で生まれたとは思えない、ポスト・ロック、シューゲイズのエッセンスが盛り込まれている。

 その謎を解き明かすヒントは彼らの評される「あらかじめポスト世代」という言葉の中にあるかも知れない。どこか、不安定な感覚をも覚えるこの呼称を手放しに賞賛しかねる部分もあるが、つまり、フランスの思想家、ジャン=フランソワ・リオタールが指摘したような「大きな物語が既に終焉した世代」と言えるだろう。余談ではあるが、メイン・コンポーザーの緒方と青野は同い年である。その感覚をもって自分自身でも、今まで深く感じてきた、既に大きな物語が望めそうにない世代特有の葛藤と、それゆえの思念、野望がこの作品には渦巻いているように思う。

 彼らの出現は、既に構造主義的な視点だけでは到底、文化を見られなくなってしまった現代の象徴だとも思える。熱力学から生まれた思想である「複雑系」が示すように、現代は高度な文明化し情報が入り乱れ、結果的に居住地や世代を超えた才能が突如として現れうる。複雑なものはあえてしつこく噛み砕いて解釈するのではく、複雑なものとして捉えるのだ。その上で、彼らは、海や国をも飛び越えたところのアーティストやシーンからの影響を平然と鳴らすし、それをただの洋楽の模倣ではなく、国内の音楽から吸収したエッセンスと衝突させた上で咀嚼した音を鳴らしている。それは確実に、邦楽ロック・ファンをもうならせるものであると言えるだろう。便宜的に今回はポスト・ロック、シューゲイズという言葉を用いて彼らを評したが、聴くものによって新たな読み解き方がされることも期待できる。その多様性こそが複雑系なのだから。

 さて、この複雑系の現代が生んだ才能であるトークであるが、このアルバムを聴いただけで、まだまだ彼らのポテンシャルはあるし、どこか淡々としたものよりも、もっと多角的な世界を描き出せるようにも思う。デビュー・アルバムでもある、この『Waltz for Feebee』において、その多角性や多様性を要求する(歌詞もサウンドもそうだ)のは、はっきり言って、いちリスナーとしては欲張りすぎの指摘だとも思える。しかしそんなワガママな要求を、ついぶつけてしまいたくなるのも、それを実現してくれる底力が、彼らには備わっていることがハッキリと垣間見えるからこそである。ここから、更にどんな世界が滲み、飛び出してくるのか期待は尽きない。少なくとも熊本のシーンや国内のインディ・ファンだけではなく、メジャーな邦楽のロック・シーンのファンにも聴かれるべき音楽であることは、間違いない。

 メイン・コンポーザーの緒方は、現在、22歳。嫉妬も禁じ得ないまでの才能だ。

 

(青野圭祐)

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