映画『少年と自転車』(ビターズ・エンド)

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少年と自転車.jpg ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌは、以前に日本で聞いた「帰ってこない親を施設で待ち続ける子供の話」を元にして、この映画は生まれたという。

 ベルギーという国のイメージは例えば、日本から見ると、ブリュッセルの風光明眉な都市風景、ベルギー・ビール、チョコレートやワッフルなどが先立つのだろうか。実際、GDPを見てみれば、一人当たりの数値は世界でも非常に高い。しかし、「モノを生みだす」国というよりは貿易に依拠している小さな国のため、失業率は非常に高い。勿論、工業とサービス業が発展している北部とそうではない南部の開きはある。ダルデンヌ兄弟は所謂、失業率が特に高いというワロン地域の工業都市リエージュで生まれている。

 これまで、彼らが録ってきた映画はドキュメンタリーから始まり、シリアスな様相を含んできた。3作目となる1996年の『イゴールの約束』では、自転車の見習工をしながら、絶対父性に縛られた少年をモティーフに、そのイゴールの父であるロジェの不法入国者の斡旋業に関わる中で巻き込まれてゆく峻厳な現実にどうしようもなく強さを得ないといけないイゴールの姿が鮮烈に映る作品で、世界でも注目を集めた。

 1999年の『ロゼッタ』でも底辺の生活をおくる少女ロゼッタを通し、生々しくも痛みを帯びた視界を進む姿を切り取ってみせた。2002年の『息子のまなざし』は、特にこの日本でも多くの人たちに受け容れられた作品なので周知の方も多いだろうが、彼ら特有の貼り付くような、独自のカメラ・ワークや演技/映画の枠を越えてくるかのような手法が認知され、少年犯罪を巡っての究極の問いが投げかけられるもので、人間のカルマから尊厳までを考える中で、国境というものよりも家族や個という"ユニット"に降りてゆかざるを得ない難題を示したのかもしれない。いざ、「公」がそのユニットに介入するとしても、葛藤や苦悩は個に内在化されてゆくばかりで、そのサルヴェージを行なうのは実は社会でもなく、身近なユニット内における承認や断罪を探る可能性ではないか、という行為を求めるということ。

 思えば、スーザン・モラー・オゥキン(Susan Okin/フェミニスト、アメリカの政治 学者)は過去、以下のことを述べていた。

「どれほどわたしたちは、子どもを育てる者たちが、その選択のために、彼女たちのその他の可能性を広げる機会を制限してしまうか、そして、社会の諸価値や方向性にほとんど影響を与えることができなくなること、ということを気にかけているだろうか。どれほどわたしたちは、家族というわたしたちの最も親密な社会的集団が、しばしば日々の不正の学校であることに気を配っているだろうか。」(Okin 1989: 186)

 "「不正」の学校"という言葉をどう捉えるかは難しいが、家族という制限された親密圏での自由から広義の社会における自由の橋を渡るには、公私二元論だけでは分けられないジレンマも当たり前に包含する。昨今、日本でも事件としても取り上げられることが増えたネグレクトやDVを受けた子供たちの歩み。加害者としての親、被害者としての子供、いや、相対的にそれは入れ違うのか、構造としても複雑だ。

 このダルデンヌ兄弟の新作『少年と自転車』(原題:Le Gamin Au Velo)での主人公のもうすぐ12歳になる少年シリル(トマ・ドレ)は父親に捨てられ、児童養護施設に入っている。彼は、ダルデンヌ兄弟の冒頭の言葉のように、父親が迎えに来るのを「待っている」。しかし、電話も繋がらなければ、居住場所も分からない。

 施設を抜け出し、自分で父を探しに出るときに偶然、美容院を経営するサマンサ(セシル・ドゥ・フランス)という女性に出会う。彼の懇願もあったが、彼女は週末だけシリルと自分の家で過ごすことになる。その間も自転車で、街を走り、父親を探す。ちなみに、この作品内での「自転車」も象徴的な記号になっている。ついにと言おうか、彼は父親と会うことが出来るが、「もう会いに来るな。」と激しい拒絶を受ける。

 シリルの悲嘆と屈折に沿うように、サマンサは「良識ある大人」として彼に道徳観や慈しみを直截的に向き合い、行動、言葉で教えてゆく。一緒に自転車で河原を進むカットなどはとても光が差していて、微笑ましい。途中、施設出身者の不良が出てきてシリルを犯罪に巻き込もうという展開や所々に挟まれる闇が不安定な年齢の少年の内部を描き、彼の生きる現実を表わす箇所もあるものの、これまでのダルデンヌ兄弟にしては、エンディングに含みを持たせた優しさも見える内容になっている。

 父親が購入し、サマンサが買い戻したシリルの自転車と彼女の自転車を「交換」して、お互いが並行して走る先に見えるものはそう簡単に拓けた未来ではないかもしれない。トマ・ドレの繊細な感情の機微を含んだ演技も相俟って、一少年の成長譚と簡単に片付けることの出来ない現代的な投げかけを持った内容になったと思う。エンディング曲のベートーヴェンのピアノ協奏曲『皇帝』が柔らかな余韻を残す。

 

(松浦達)

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