JOSEPHINE FOSTER & THE VICTOR HERRERO BAND『Ando Jaleo / Perlas』(Windbell / Fire)

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JOSEPHINE FOSTER.jpg フェデリーコ・ガルシア・ロルカは、ここ日本でも人気の高いスペインの詩人/劇作家だが、1933年に訪問したブエノス・アイレスで『ドゥエンデのからくりと理論』という講演を行なった。そもそも、「ドゥエンデ」とは、"dueno de casa"というフレーズが省略されたものであり、想像上の精霊としての意味に加え、定義的には曖昧な部分も振れるが、スペイン南部のアンダルシーアにおける「神秘的ながら、どうとも言いがたい魅力」というものでもあり、具象的には歌、舞踏、芸術を指す際の言葉と捉える視角でも良いと思う。ロルカは当該講演で、ドゥエンデについて言及した。あらゆる芸術にドゥエンデは宿ることが可能だが、もっとも広く宿るのは、当然のこと、音楽であり、舞踊であり、朗誦される詩だ、と。

 ジョセフィン・フォスター&ザ・ヴィクトール・エレーロ・バンド(Josephine Foster & The Victor Herrero Band)が2010年にリリースした『Anda Jaleo(アンダ・ハレオ)』は様々な意味で話題になったのも記憶に新しい。冒頭のロルカが採譜・編曲の上で束ね、録音した1931年のスペインの民謡集「Colleccion De Canciones Populares Espanolas」では、彼が実際にピアノを弾き、舞踏家のラ・アルヘンティニータが歌うという内容で、もはや古典といってもいいものだ。その中から、11曲を選び(今回の国内盤には1曲が追加されている)、グラナダで一発録音された作品である。アメリカ人の女性SSWとして独自のキャリアを重ね、ときに、アメリカの19世紀の詩人エミリー・ディッキンソンの詩に曲を乗せた2009年『Graphic As A Star』といい、その活動に一定の評価を得ているジョセフィン・フォスターの伸びやかにして清冽たる声。そこに、公私とものパートナーであり、バンドのヘッドたるヴィクトール・エレーロの寄り添うようなハーモニーと軽快なスパニッシュ・ギターの響き、メンバーの彼の弟、友人がパーカッションなどを重ね、「混種」しながら、民謡の持つ重み、土臭さも巧みに描写せしめていた。

 まるで、かのフランスの詩人アンドレ・ブルトンが抱いていたという"もっとも強いイメージ"とは、"もっとも高度な気ままさを示しているもの"、そういう雰囲気に近いだろうか。スペインの民謡集に宿る歴史も慮りながら、しっかりと今の時代に伝承する心遣いに満ちた内容だった。

 同じメンバーでのこの新作『Perlas(ペルラス)』では、ニュー・フォークの追い風を受け、スペインの各地に伝わっている伝承歌をジョセフィンがチョイスし、自作曲も一曲入れ、アナログ・テープに一発録音したものになっているが、『Anda Jaleo』と簡単に比較対象は出来ないが、柔らかな陽射しが差してくるようなウォームな空気はこちらの方が強いかもしれない。

 昨今、ベックやローラ・ヴェイアーズなどトラディショナル・ソングを掘り起こし、今の温度で再表象しようとする動きが世界の各地で少しずつ起きているが、それはグローバリゼーションへの反撥や商業主義への距離感といったものではなく、各国に眠る芳醇たる歴史に耳を傾ける必要性が出てきているということだとしたならば、偏狭なナショナリズムではなく、味気なく平質化されるカルチャーへの「原資(エレメント)」の呈示行動なのではないか、とも思いさえする。とともに、未来を生きる子供たちに向けた視座も包含されているだろう。日本には明瞭に「温故知新」という言葉があるが、それもあるとは察するし、各表現者たちが自覚的に自分たちの表現のルーツや背景を見返し、そして、前へ進もうとするための禊ぎの時代と形容してもいいのでないか、と思う。

 新しい音楽に新しい時代が反映されるというのはあり、文化の変遷により、忘れ去られてしまう曲も止むを得なく出てくるのを時代のせいにするのも分からないでもないが、こうした試みによって伝承歌が至って、当たり前に2012年の生活に「関わる」というのもとてもいい気がする。ロルカ沿いにドゥエンデが見えてくるような二作になっている。

(松浦達)

 

筆者注)日本国内盤は『Anda Jareo(アンダ・ハレオ)』と『Perlas(ペルラス)』のダブル・アルバム仕様のため、前作の『Anda Jareo』にも触れさせて戴きました。何とぞ、ご了承下さい。

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