きゃりーぱみゅぱみゅ「Candy Candy」(Warner Music Japan)

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きゃりーぱみゅぱみゅ「Candy Candy」.jpg おまえらきゃりーぱみゅぱみゅをナメてるだろ?

 書きだしから語気が荒くなってしまい申し訳ございません。しかし、世間のきゃりーぱみゅぱみゅに対する見方を考えると、そう言いたくなってしまうのです。筆者がなぜ、きゃりーぱみゅぱみゅがお気に入りなのかと言いますと、学芸会レベルのラブストーリーを感情過多に歌い上げたような、安っぽいラブソングが未だに蔓延る日本のポップ・シーンのなかで、きゃりーぱみゅぱみゅはナンセンスに近い歌を歌えているから。

 きゃりーぱみゅぱみゅは、必要以上に歌声をアピールすることはない。ただひたすら、聴き心地の良い"音楽の一部"に徹している。だからこそ、きゃりーぱみゅぱみゅの歌はどこかふわふわしていて、感情が希薄である。そんな語感重視の抑制的な歌い方は、やくしまるえつこの登場によってやっと多くの聴き手に受けいれられたものだが、その需要をお茶の間レベルにまで広げることを痛快にやってのけているのが、きゃりーぱみゅぱみゅだ。というのは、筆者の考え過ぎだろうか?

 もちろん彼女が自覚的に"音楽の一部"になっているのではなく、誰かに指示されてそうしている可能性もあるが、だとしても、指示通り実行できる彼女の資質がより重要で素晴らしいと、筆者は考える。ほぼ強制に近い共感を聴き手に求める、押しつけがましい三文ポップ・ソングが量産される昨今において、きゃりーぱみゅぱみゅの歌は、表層的な装飾を過剰に盛りこみつつも、そのすべてが無意味というある種の清涼剤的ポップ・ミュージックとして、筆者の心をとらえる。さらに深読みを進めれば、"無意味な過剰"を身にまとうことで、"ほぼ強制的に共感を求める過剰さこそが無意味である"という批評的態度を貫こうとしているのではないか、とすら思える。もちろんすべては筆者の推察だが、日本のポップ・シーンにおいてきゃりーぱみゅぱみゅは、いま述べてきたようなものとして機能していると思う。

 そして本作には、中田ヤスタカの新たな一面が窺える。パフュームに近いサウンドを鳴らす「Candy Candy」、ポップン・ミュージックで叩きたくなる軽快なポップ・ソング「でもでもまだまだ」(そういえば、中田ヤスタカは以前ポップン・ミュージックに曲を提供していましたね)の2曲は、中田ヤスタカが他のプロジェクトで使うセンスや視点とは異なるものが音として鳴っている。その異なるものとは、特定のなにかを突出させるよりも、それぞれの音がひとつの歯車として機能する、コレクティヴな音像である。そのコレクティヴな音像は、直感的に作られた収録曲「ちょうどいいの Extended Mix」を聴くと、先述の「Candy Candy」「でもでもまだまだ」とのコントラストによって、より浮き彫りになる。きゃりーぱみゅぱみゅと中田ヤスタカ、どうやらふたりは、クリエイティヴな関係を築けているようですね。

 

(近藤真弥)

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