BURIAL & FOUR TET「Nova」(Text)

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BURIAL & FOUR TET.jpg ブリアルフォーテット。鬼才と呼ばれる者同士のコラボレーションも、「Nova」で3作目だ(「Ego/Mirror」にはトム・ヨークも参加している)。本作でふたりは、いったいどんな音を鳴らしているのか? レコードをプレイヤーに乗せ、音に注意深く耳を傾けていると、筆者の頭にある一文字がイメージとして浮かんだ。それは"声"である。

 とはいえ、本作はヴォーカル・トラックと呼べるものではない。本作において"声"は、終始"音楽の一部"と化しており、ヘタをすれば仄暗い深淵に沈んでしまいそうなほど、その"声"は弱々しく、実体性に乏しい。だが、その弱々しさこそが重要であり、本作のメランコリックな興奮を醸しだしているのではないだろうか?

 洗練を極めたシンセの音色、ストリングスや鳥のさえずりのような音など、本作に収められたすべての音が、"消失"によって最大の興奮を得ている。そんな"消失"で埋め尽くされた音像のなかで、浮遊感を携えた幻想的な"声"はふらふらと漂っているが、筆者にはこの"声"がどうしても、肉体どころか魂からも解き放たれた"ゴースト"のように聞こえてしまうのだ。

 例えばクラフトワークは、「The Robots」にて"We Are The Robots(僕らはロボット)"と歌い、先に"I Want To Be A Machine(機械になりたい)"と歌ったウルトラヴォックスとは違い、本当に機械(ロボット)となってしまったわけだが、クラフトワークの脱人間志向が結果的に人間性の回復に行き着き、そのクラフトワークからアフリカ・バンバータやサイボトロンといったエレクトロが生まれ、そしてサイボトロンの片割れであるホワン・アトキンスはクラフトワークの哲学を継承し、それを発展させたテクノというソウル・ミュージックを生みだした。これに近いことを最近やってのけたのが、ジェームズ・ブレイクである。アルバム『James Blake』ではオートチューンをふんだんに使い、とことん肉体性を削ぎ落としながらも、人間の持つ悲壮や痛みをソウルという形で表現することに成功しているが、肉体性を排除する過程を経た音楽が結果的に人間性の回復に行き着たという点において、ジェームズ・ブレイクはクラフトワークやホワン・アトキンスと同様の道を辿ったとも言える。この類似性は、とても興味深いものだ。

 そして本作は、ジェームズ・ブレイクとの類似性を窺わせるが、ジェームズ・ブレイクがあくまで"声"に執着しているのに対し、本作は言語や肉体性どころか、思念や意識という極めて抽象的な領域に"声"があり、"語っている"というよりは"鳴っている"といった表現が相応しいそれは、ジェームズ・ブレイクよりもいささか急進的である。そんな急進的な姿勢は、とてつもない速さで進む現代社会では瞬く間に葬られる人間の脆弱な"声"を図らずも描写しているが、だからこそ本作は、歌声や生き様といった肉体性に依拠した従来のソウル・ミュージックではない、ある種の逆説的ソウル・ミュージックとなっている。

 

(近藤真弥)

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