窪美澄『晴天の迷いクジラ』書籍(新潮社)

|

晴天の迷いクジラjpg.jpg R-18文学賞(性について描かれた小説全般を大賞にしているが応募者は女性に限られ選考委員の作家や下読みの編集者もすべて女性のみ。女性のためにエロティックな小説の発掘を目指した新潮社主催の公募新人文学賞)を2009年に『ミクマリ』で受賞し、2011年に受賞作を収録した『ふがいない僕は空を見た』(第24回山本周五郎賞受賞、第8回本屋大賞2位受賞)を発表し、注目されている窪美澄の二冊目になる最新小説が『晴天の迷いクジラ』だ。

 まだ間に合うと言っていいのだろうか。いや、今から追いかけて行くのがきっと読書の喜びと興奮をもたらしてくれる小説家の一人になるだろう。十年もすれば小説好きな人にあなたが「いま面白い小説って何?」と聞けばすぐに出てくる第一線の女性作家として、不動の人気になっていることはこの二作から想像できる。

 二作とも物語の主軸にあるのは、章ごとに主人公(目線)が変わるということだろう。個人の「私小説」的な一人称で見た世界を描くのではなく、章ごとの主人公がなんらかの関係を持ちながらも目線が変わる事で、同じ出来事も細部が変わってゆく。マンガだと浅野いにお著『素晴らしい世界』のような構造だ。個人同士でも考える事や思う事はもちろん違う。生きている人間の数だけ細部の異なる世界が存在しているのが、僕らの世界の成り立ちである。窪美澄という作家はそこを丁寧に描く。

 今作『晴天の迷いクジラ』は四つの章から成り立っている。

 第一章「ソラナックスルボックス」は仕事の忙しさから鬱になり、学生時代の恋人にも振られ(裏切られ)、勤めていたデザイン会社が潰れそうな青年の由人の物語。田舎から上京してきて、東京で付き合い始めた恋人と行った場所が記憶の地図になるとか、由人の家族や田舎に対しての感覚は自分に近いものがあるので「やられた~」って感じがした。たとえ上京していなくても、故郷から離れて暮らし始めた場所で過ごした人との想い出が、その場所を心に刻むことになるという体験をうまく描いているので共感できると思う。

 第二章「表現型の可塑性」はがむしゃらに働いてきたが、不景気のあおりで自らの会社が壊れて行くのをただ見守る女社長の野々花の物語。初恋と出産、そして育児。女を捨て、故郷を捨てた野々花の過去。この章を読んでいろんな感情が巡る人は、金原ひとみ著『マザーズ』(新潮社)を読めばいいと思う。きっと子供を育てているお母さんには、僕なんかよりも強烈なリアル(痛み)がある。『マザーズ』という小説は分厚いけれど、2011年発表の小説の中でも群を抜いてるのでこちらもオススメ。

 第三章「ソーダアイスの夏休み」は母親の偏った愛情に振り回され、やっとできた友だちも失って引き籠るリスカ少女の正子の物語。母と娘の間にある難しさと個人(親)の思う正しさが他人(子)に痛みを与えてしまう。その関係性において、どうしようもない痛みとそこから救い出してくれる友人との出会いをソーダアイスをうまくアイテムとして使いながら展開して行く。一作目『ふがいない僕は空を見た』から窪美澄は、個人の出発点である「家族」について丁寧に書いている。

 終章「迷いクジラのいる夕景」は湾に迷い込んだクジラを見に行く事になった由人と野々花、そして途中で彼らと出会い、一緒に同行することになった正子の物語。そこで出会う人々と喪失の先にあるものが、少し柔らかい日差しのような希望として描かれている。「家族」という個人の最初の場所が引き起こす個人の歴史における痛みと生きづらさ、ある種メタファーとして迷いクジラ。それらが出会う、集う場所は他人同士が同じ場所に居るある種いつわりの「家族」だけれど、そこでそれが癒され、心がほどかれて行く。

 「家族」は一番小さな社会でありコミュニティ。窪美澄の作品に性的な描写がある(一作目がR-18文学賞を受賞してるので、お得意であるし、それを書くべきだと思われていると思う)のが僕は当然だと思うのは、人の発端はそこからだし、その欲望がなければ人は生まれてこないから。「家族」を描く際に個人の欲望(性欲)を描かない方が僕は不自然だと思う。作家が家族を描くことは「性」を嫌でも引き受ける事だと思う。それが始まりであるから。

 一作目も性的な表現が注目されていたりしたけども、今作も前作も窪美澄は「家族」という関係について書き続けている。彼女がデビューする前に妊娠、出産、子育てなど、女性の体と健康を中心にした編集ライターとして活躍していた事が大きく小説にも現れているのは間違いなく、普遍的であり永久的に先鋭的なテーマを彼女は書き続けて行くのだろうと思う。窪美澄は「家族」から成り立つ個人をきちんと書いている。だからこそ読み手は、小説に出てくる登場人物たちと環境や生まれは違うけど、気持ちを重ねることができる。読んでいてしんどくなることもあるけれど、それでも前に進んで、時には逃げる彼らが愛おしくすら思える。それは僕らの一部分でもあるから。

 最近のテレビのニュースでも、湾に迷い込んだクジラが取り上げられていた。クジラというと、僕には「鯨の胎内」から「死と再生」の通過儀礼が浮かんでくる。村上春樹の『羊をめぐる冒険』に出てくる「いるかホテル」も本当は「鯨ホテル」にしたかったと村上氏が以前に語っていた。それはキャンベル『千の顔を持つ英雄』を参考に作っているからで、基本的に『羊をめぐる冒険』は神話構造なのだけれど、窪美澄は無意識ながらクジラをモチーフにしている。それは、作家としての本能が嗅ぎ付けたからなのかもしれない。

 喪失を抱えた由人、野々花、正子の三人が訪れる場所に迷い込んでいるクジラ。まるで先祖帰りして陸を目指すかのようなこの巨大な生物の行動は、自殺に似ている。三人は「鯨の胎内」に"入り、再び出てくる"という死の世界から戻って来るような通過儀礼の代わりに、その町で(彼らと同じように)大事なものを失った人とある種の偽装的な「家族」のような日々を過ごす。そして、死のベクトルから生のベクトルに向かって行く。それは癒しに似ている生への渇望であり、柔らかな日差しが差し込んで冷えきった体の緊張が解かれるような喜びだ。

 闇をきちんと見据えた上での光。それは共存し、どちらかがなくなることはない。彼らは死の側(絶望)から生の側(希望)に少しだけ向かいだす。

 僕たちは出会った人たちとすべて別れて行く。得たものはすべて失ってしまう。あなたも僕もやがて消えて行く存在だ。だけど、いつかやって来る喪失と向かい合いながらも諦めずに日々を生きて行くこと。それは、死を見据えながら毎日を生きて行くということ。そんなふうに、それでも誰かと生きて行きたいと思える小説が『晴天の迷いクジラ』だ。

 窪美澄という小説家の名前は覚えておいて損はない。そして彼女の小説を読めば次の作品がまた読みたくなる。この十年を代表する作家の一人になるよ。きっと、たぶん。いや、そうなってほしい。

 

(碇本学)

retweet