山田鰆『ぶらりとながり』(同窓会)

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山田鰆.jpg 遅ればせながら、磯部涼著『音楽が終わって、人生が始まる』を読んだ。ここで書評を展開すると長くなるし、"山田鰆『ぶらりとながり』のレビュー"ではなくなってしまうので詳細は省くが、本書を読んで感じたのは"疎外感"である。本書に書かれていることの多くは経験済みだが、そこにどっぷり浸かった生活を送っていると言ったら、それは嘘になる。第2章の「新しいゲーム、新しいルール」に代表されるように、ストリートや"その瞬間という場"に居なければ完全に理解することができない題材が本書では多く取りあげられている。本書で書かれていることに憧れを抱き身を投じるのもアリだが、それができずに知ったかぶりでシーンを語ってしまうのはサムすぎるし、かといって身を投じるには、あまりにハードな世界だ。

 社会 / 裏社会には受けいれてもらえなかったが、日本語ラップ・シーンを受け皿とすることができたD.Oのような人間ならまだしも、筆者のように常に足元がぐらついた場所で生きている人間にとって本書は、あまりに冷酷で無慈悲なものである。

 前フリが長くなってしまったが、山田鰆『ぶらりとながり』は、そんなぐらついた場所から歌われている歌だ。いや、歌と言ってしまっていいのだろうか? 歌というよりはグダグダ愚痴を吐いてるだけとも言えるが、本作に強い興味を惹かれたのだけは確かだ。

 正直、山田鰆の歌はお世辞にも上手いとは言えないし、声量もあるほうではない。周りの音に声が負けているときもある。しかし、それでも彼女は歌いつづける。グダグダと。なぜなのか? 本作を繰りかえし聴いて感じたのは、彼女自身決して音楽的才能に恵まれていないことを自覚しているのではないか? ということ、そして、そんな自分を認めたくなくて、必死に音楽を鳴らしているのではないか? ということだ。つまり、"自分は何もない人間ではない"ということを信じたくて歌っている節がある。そして、この焦燥感が"魅力"に転じ、"何もない人間ではない人間"になっていく様子が本作には記録されている。その魅力がもっとも発揮されているのが「びっこのマーチ」で、不安定な心の揺らぎや失敗がピックアップされているが、《スカート 風吹いて 全部めくれちゃえ / そうやって 恥をかけばいい / 歌うとき 全部が全部音外れちゃえ / そうやって 恥をかけばいいのです、いいのです》という一節が、すべてを肯定し前に進むためのポップ・ソングに押しあげている。

 こうした言葉のダイナミズムはいたるところで発揮されていて、《1.2.3.4.3.2.1.3 忘れました、せーの! 》(「せいなの」)というフレーズには景色を一変させるパワーが宿っているし、なにより語感のリズムが心地良い(そして、「せーの!」の言い方が良いですね。音フェチの筆者に響きました)。

 "音楽家としての山田鰆"は並かもしれない。しかし、自分をユーモアたっぷりに表現し、人を惹きつける"表現者としての山田鰆"は、他の誰にも真似できないものを持っている。そして、この"表現者"としての資質が親しみやすいメロディーなどに反映され、"音楽的才能"となっている不思議。こんな奇跡的なことが、『ぶらりとながり』では起こっている。

 

(近藤真弥)

 

※本作は《同窓会》のページからダウンロードできる。

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