シヴァ・ヴァイディアナサン『グーグル化の見えざる代償 ウェブ・書籍・知識・記憶の変容』書籍(インプレスジャパン)

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グーグル化の見えざる代償.jpg 最初に書いておくと、この書物はタイトルから察することが出来るだろうが、旧年に世界で話題になった"Siva Vaidhyanathan, The Googlization Of Everything (And Why We Should Worry) University Of California Press Berkeley And Los Angels, 2011"の日本語訳書であり、著者はバージニア大学教授/ニューヨーク人文科学研究所のSiva Vaidhyanathan(シヴァ・ヴァイディアナサン)、重要になるのは"グーグルゼーション"というタームになっている。周知の通り、グーグルという企業は、「世界の情報を組織化した上でそれを"誰も"がアクセスできるようにすること」を社是としている。基本的なところだが、グーグルにおけるウェブ検索ページのランクを組むアルゴリズムとはそもそも、スタンフォード大学博士課程でコンピューター・サイエンスを研究していたグーグルの共同設立者セルゲイ・ブリン、ラリー・ペイジの共同執筆の1999年の学術論文から始まっている。

 今や当たり前になった物事でも、研究者の純然たる研究心から始まる「何か」は多い。研究者は「研究」を推し進めることで、アカデミズムを通して社会/貢献を目指す。しかし、その「貢献」部分が削除された形で「社会」はその作用価値を市場化する。市場化された研究コンテンツとは、果たして構造的に世の中を幸せにしていっているのか、そういった疑義は生まれてくる。この書は主に、グーグルの光と影があるとしたならば、影の部分に関しても多く筆致されている。例えば、検索システムでの規制枠での上位情報への信頼の相対性、Gmail含めて総てが情報連結されてゆくことで囲われるオープンした遮断地帯、開放と透明度がグーグルをどういった形で増長させているのか、など普段、無意識に使っている行為を再考してみる、そういった視角がある。なので、グーグル論として読むと、物足りない部分は正直なところ多く、この現代社会における人間と相向するグーグルとは、についての一考察と捉えるといいと思う。更に、グーグルを使う「自分たち、そのもの」を考えるトリガーにもなっている。

 「序章 概論」で印象深いところがある。21頁にあたる、もし、グーグルがなかったのならば、大事な情報を誰が管理、判断、格付け、濾過し、世の中へ配信するのだろうか、ということと、コンピューター・アルゴリズムと実体の人間との取引本質とは、という根源的な現代病の深部へ降りた投げかけだ。システムとしての「本質」は何処に見えるのか、個人的に昨今のSOPA(Stop Online Piracy Act)の問題でも感じることがあっただけに、今、情報は無料で拓かれ、尚且つ集合知としてバベルの塔が建てばいいのか、といえば、答えは明確に「NO」ではないか、と思う。手に入らない情報の方が実のところ、増えているのではないだろうか。

 説明を入れると、本書は章立てで、大きく六章構成からなる。

 第一章では、グーグルがいかにウェブ・メディアを支配していったのか、広告やフリー・ライド、マーケットの視点から平易に切り取る。第二章では、グーグルのテクノロジー面へのアプローチを行なう訳だが、印象的なのは日本語のサブ見出しで「傲慢」と記された109頁以降の箇所だろう。2008年10月、ニューヨーク市でオックスフォード方式の討論として「分析―グーグルは『悪を行うことなかれ』のモットーに背いている」が開催されたという事柄から入り、ダンテの『神曲』の7つの大罪における「傲慢」に関しては、本気で考えたと筆者は記す。その理由は、テクノロジー原理主義とその背景にあるグーグル的な磁場をいとも簡単に受容した社会サイドの適応の因果関係に準拠するのではないか、ということなのだが、テクノロジーというプラシーボ(偽薬)開発が進む中での本当の処方薬が投下されなかったのではないか、ということ。そのくだりで、神学者のラインホルド・ニーバーの言葉を孫引き、「人間的な美徳と権力」の二義間を不可視させると詰める。順応は現代社会では「美徳」に≒となる余地があるなら、その余地に砂上の楼閣として権力が自然と屹立する、そういった絵図は装置的な観点のみならず、皆を盲目にさせてもしまう。

 第三章で、グーグル化されてしまった世の中での「自分たち」について記す。自由が拡がったかのようで、選択条件とは本当に担保されているのか、プライバシー、ストリートビュー、更には監視社会の在り方も踏み込む。151頁にて、英国の大都会の殆どすべての街角には、ビデオカメラが設置されており、BBCは公私合わせても420万もの監視カメラが作動しているだろうと見積もり、14人に1台の割合である(「Britain Is 'Surveilliance Society'」、BBC News 06年11月2日)との記述がある訳だが、昨年の暴動のこともあり、その時点より現在ではさすがに監視カメラの数は増えているのかもしれない。日本でも、もはや何処で何をしていても、見張られているというのは極端な話かもしれないが、無数の監視カメラが何らかの形で公私の管理を行っている。ただ、その管理しているのは実際、何処にいるのか、00年代に増えたアート系のインスタレーションが盗撮、監視カメラ沿いの断片を積み重ねたものが少なからずあったことを想うと、もう今、10年代は主体は、「見られること」にも慣れてしまったのかもしれない。それどころか、自発的に不特定多数に発信してゆく動きも目立つ倒錯もある。

 152頁には、2009年5月にプリンストン大学で行なわれた、コンピューター・サイエンティストのエド・フェルテンとグーグルCEOのエリック・シュミットとの対談に触れ、エリックが「世界中のグーグル・ユーザーのあいだに重要な文化的な違いがあるとしても、それはごくわずかだと考えている。」と述べ、グーグルに関して最も多い質問で「他の地域ではどう違っているのか?」ということに対して、「そのようなものはなく、他の国々でも、人々はいまでもブリトニー・スピアーズに関心を持っています。どこに住んでいようと、人間は同じである。」との確信を伝える。確かに、グーグル化とグローバリゼーションによって多くの国の境目を越え、窃視癖は高まった。素性から動向、有り触れたゴシップ、有名人じゃない無名人に至るまでの行動までも収集、検索する「時間」と「行動力」、そこからもはや10年代におけるリバイバル・タームの一つである、パノプティコンへと繋がる。

 「パノプティコン・モデル」には現在進行形で多くの方々からの言及が増えたのもあるが、本書で興味深いのは、更に重要であるということは多くの地域で働いている力学とは、パノプティコンと真逆だという指摘だ。それをして、「クリプトティコン」(見えざる監視)という言葉を用い、単一権力への無自覚/自覚にしてもの服従の道筋があるということを示唆する部分だろう。ウィトゲンシュタインの言葉を借りずとも、「外的」対象と「内的」な個々の経験とレバレッジ(梃子)は個人経験の材料の質へと、質から現実に結び目が浸食する。浸食した結び目を、包括的なメタ認知の視点から曖昧の閾へと運搬することが出来るのかは正直、難しいと思う。もう、曖昧で耐えることの不安より、確定されることの安心が今を揺り動かすのは時代の「内観」を照応するまでもなく、「そこ」に実は「それは、ない」という帰結で答えを急がざるを得ない命題要請にリンクしてくる気がするからだ。リンクからシェアリングへ、シェアリングから、「何かを言った気になった、回答」へと橋が渡されてゆく内、渡った後にはシステム論からのデフォルト設定があるというのは穿ち過ぎなのだろうか。

 第四章では、世界のグーグル化について記される。その中にはグレイト・ファイアウォール、Baidu(中国)も勿論、含まれる。ジョージ・オーウェル『1984年』、オルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』などの著書にも触れながら、アゴラを模索する。第五章で、書籍と知識に軸を置き、著作権と図書館スキャン・プロジェクトなどへの警鐘を鳴らす。書籍が大幅にスキャニングされて、電子化され、流される―それ自体に罪を問うのは難しい時代だと思うが、罪の裏の大量のそのコピーの、コピーの先に原書が持つ余韻は残るのか、電子書籍というツールには害悪はないと個人的に思うが、著作権管理と余りある雑な引用のオープン化と断片群には滅入ることは時折、ある。決して、その書籍を読んだからといって、その内容を全部分かるということはないのだが、今はより纏められた形での一方通行の誤配が生まれてもいる。誤配を受け取った人たちはそれも一応、ファイリングする。ファイリング内に個々の盤石たる知識は埋め込まれるのか、洗練されるのか、より課題に挙がることになってくるのは仕方ないとは思う。それは、第六章での「記憶」のグーグル化にも繋がってくることであり、モザイク型コミュニティが個を解き放つ―その断片の断片を集め「ある枠」におさめるのが是と言えないこともない。この章では、昨頃にここクッキーシーンで書いたジェフ・ジャービスの名前も出てくる。パブリックネスとグーグルゼーションの相関性は考えてみる価値のあるテーマだと思う。

 最後に、彼が本書の最初にて引用しているアレクシス・ド・トクヴィルの言葉を置きたいと思う。グーグルゼーションの果てを想うのも、その楽観/悲観シナリオを意識するのもおそらく「グーグル」やそれに似たそのものではなく、使い手側の集体意志だ。

"It Does Not Break Wills, But It Softens Them, Bends Them, And Directs Them; It Really Forces One To Act, But It Constantly Opposes Itself To One's Acting; It Dose Not Destroy, It Prevents Things From Coming Into Being; It Does Not Tyrannize, It Hinders."

 そして、進むしかないのだと思う。

 

(松浦達)

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