GRAPEVINE「MISOGI EP」(Pony Canyon)

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GRAPEVINE.jpg 前作、『真昼のストレンジランド』で異郷探索へと歩み出た、グレイプヴァインから1年振りに新しい中編の手紙が届いた。前作は、まさに異郷から生まれた長編小説であり、異郷文学と言える作品であると称させていただいたが、その前作と対比すると、今作は異郷からの小説と言うよりも、前作で活かされた異郷の風景を自らの目で鋭く見据える方法を更に応用させ、異郷だけでなく、日常そのものの内に潜む歪みを精査し、そこから得られたフィーリングを綴った書簡のようだ、と言えるだろう。と言うのも、書簡も後年、文学的価値が顧みられることもあるが、書簡というコミュニケーション・ツールですぐに文学性が出ることは少ない。だが、決して、前作に比べ今作は濃度の薄い作品であるということでもない。

 事実、今作は、一見して分かるように、収録曲の全てがアルファベットで統一感があるし、冒頭の「MISOGI」で身を清め、歩を進めた先の「RAKUEN」へと進みゆくまで、そのささくれ立った身体を一瞬も現状への充足感に委ねることなく進んでいく様が一聴しただけで捉えることができるだろう。全編、ローマ字表記のタイトルの曲が並んでいるのを一見した時に、もしかして前作までと違ったユーモラスで軽快な楽曲のオンパレードのように思えてしまうかも知れない。しかし、その実、ここに収められた6曲は、今までのグレイプヴァインが示してきたシニカルな感性を、ただシニシズムで終わらせるのでなく、傍観や諦念とも違った、まさに「SATORI」のような境地に達するまでの過程、テーゼが刻み込まれている。ただ、何も知らないまま、無邪気に遊ぶのでもなく、偽悪的になって憂鬱をまき散らすのでもなく、むしろ今まで歩んできた道のりで痛んできた傷を消そうともせず、その傷を見つめ続けた上での安静、涅槃をも思わせるユートピア的だとも言える。もちろん、そこは享楽の園でも失楽園でもない。ただ、移り変わる景色とそれに目を映す自分ただ一人がすっと立っているかのようだ。

 サウンド的には、ルーツ・ロックにとらわれることなく触れ幅が大きく伸びやかになった前作の延長線上とも言えるような、さらに伸びゆくような音世界でありながら、その線は太いままさらに強かに鳴り響く野獣の気高い唸り声のようなギターと、その吠える野獣を後ろから支えて地から離さないような重厚なリズム隊のグルーヴが前作より光っている。タイトル・トラックである「MISOGI」には、今までよりも大々的にホーン隊をフィーチャーしているが、それも彼らの吠える声を増幅するのに一躍買っており、ただの憂鬱な皮肉屋の漏らすものでない、言葉遊びを多用した挑発的ながら、楽観的なだけで終わらない蟠りを蟠りのまま歌ったよう(改めて、ヴォーカル/ギターの田中は、このさじ加減がいつどの作品でも常に秀逸で、それがシーンの似たアーティストから頭一つ抜けて君臨することを許されている理由とも言えそうだ)な歌詞も相まって頼もしい。「ONI」は、『イデアの水槽』の前編部分を思わせるような焦燥感に満ちて、疾走感もあるが、サビでの高野勲のキーボードがエキセントリックに鳴り響き、トリッキーな甘美をも味わえる。「SATORI」、「ANATA」では前作の「Dry November」のような重たくもどんどん心の内に浸食していくような乾いたサウンドスケープに魅了され、「YOROI」で乾いた感覚はそのまま彼らのお得意の一つでもある、サビにいたるまでのおどけたような曲展開がチャーミングとも不気味とも言える歌詞に合わさって奇天烈な世界へ踊り入れる。とは言え、やはり「MISOGI」の清冽な魂が行く先の「RAKUEN」が、群を抜いて秀逸なメロディライン、それにのった『Lifetime』や『Here』期の優しさと切迫を現代の彼らの痛烈な感性でなぞったような詞と田中の歌声が文字通り《エデン》に「迷い込んだ」(到達した、とはニュアンスが決定的に違うだろう)かのようで、前作同様、読後感ならぬ、聴後感とでも言えるようなものにさえ浸ることができる。

 なお、今作の作曲は、全てグレイプヴァイン屈指のメロディ・メイカーである、ドラマーの亀井亨によるものである。今までの作品を顧みると、基本的には、ファンキーかつ突き刺さるような曲の多かった田中とカントリーやブルースを吸収しつつ哀愁の渦を巻き起こすような曲の多かったギターの西川弘剛に挟まれ、豊満なメロディと軽やかながらツンと染みて解けないような綺麗な曲を提供することの多かった亀井であるが、今作ではエッジのキいた曲も幾分多く、本来、田中や西川が担当したような風合いに近いような曲も書いていることは興味深い。また、全曲自らが作曲したからか、今までのアルバムに比べると非常にタイトなドラムが光っている点も注目したい。ホーン隊を入れたからと言って全体的には耳に痛いようなハイファイでなく、あくまで彼らの作り込まれた中音の目立つ丁寧な音作りと相まって無駄の少なさが際立ち、切なさが倍増しているようだ。

 さて、そんなサウンドにのった歌詞は、前述のように、前作が小説的であるとすれば、旅路に出た友人から送り届けられた手紙のようだ。旅路の途中で見た風景を自ら咀嚼して、自分の言葉に置き換えて報告しているかのようでもあり、時にはそれを、たぶんにユーモアを交えて(「MISOGI」、「YOROI」などで顕著だろう)、時には、感傷を滲ませたような叙情を交えて(「SATORI」、「ANATA」など)綴っている。既に全編を通した時に、諦念とも違う静寂のような感情がしたためられていることは述べた。このアルバムは、1曲1曲の詞を精読するよりは、全体を通して聴いて特に耳に入ってきたフレーズを抽出する方がうまく輪郭を捉えることができるようでもある。そういった意味では、『真昼のストレンジランド』以上に、リスナーひとりひとりの感性の違いによって如何様にも解釈できるような懐の深さのようなものをも感じられる。文学性ももちろん健在で、「YOROI」の一節、《存在と無と時間》は、フランスの実存主義者でもあり小説家でもあるジャン・ポール=サルトルの哲学的主著『存在と無』(実存的主体とそれが固定された者でなく常に可変形であること、実存的な自由と責務を追究した書物である)や、そのサルトルに影響を与えたフッサールへの謝辞も含まれたハイデガーの哲学書『存在と時間』(こちらはタイトル通り、人間という現存在と時間、死との関係性を記している)を思わせる。

 あくまで僕個人の意見に過ぎないが、まずは、このアルバムは詞を精読せずに、「MISOGI」から「RAKUEN」までを一気に聴いてみて、彼らが書いた手紙に対してあなた自身も返信の文書を綴るような気分になってもらいたいと思う。なぜなら、恐らくこのアルバムを通して聴いたならば、あなたも「RAKUEN」にあるような《エデン》に迷い込んだような錯覚を起こすであるだろうからだ。ここで描かれる「エデン」とは、あなたが夢見てきた理想郷であると同時に、決して満たされることのない刹那と乖離の空間であるからだ。多くの人間が自らの「エデン」に向け、歩んできたはずが、幾つもの不条理に巻き込まれてエデンがエデンとしての元々の性質を失われてしまう。ペシミスティックな意味ではなく、実際に最初に持っていた理念のままに歩み続けることは非常に困難なことであるのだ。

 この曲は前作の最終曲、「風の歌」とは違った、間接的な寸止めの歌詞で終わる。《探していた光を見失うのはここがエデンだから》。あなたはこの境地に対してどう返答するだろう。その答えを自分自身で確かめるためには、改めて「MISOGI」で身を清める必要があるかも知れない。そんな時は、何度もアルバムをループするのも一興だ。そういった意味で、このアルバムは1曲ずつ個別に分析していくタイプの作品ではないように僕個人としては思えてしまう。しかし、いつかはあなた自身で彼らのテーゼに対して返答を用意しなければならない。あなた自身のテーゼは、既にあなたは知っている。「風の歌」だ。相も変わらず、あなた自身の《風に吹かれて/たった一つの》。それを返答すれば良いのだから。

 

(青野圭祐)

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