『ハシエンダ:マンチェスター・ムーヴメントの裏側』(East Press)

|
執筆に数年、邦版制作に1年以上かかったピーター・フック著『ハシエンダ』が、この2月、ついに日本で発行された。

ミュージシャン(元ジョイ・ディヴィジョン/ニュー・オーダー)であるピーター・フックが書いた本? まもとなの? といぶかしく思うかたも少なくないだろう。しかし、はっきり言っておく。これは、むちゃくちゃおもしろい。そしてクオリティーも高い。

「The Guilty Parties」と題された前文(翻訳は「罪深きパーティーをくりかえす仲間たち」。本当はニュー・オーダーに「Guilty Partner」って曲がある...というニュアンスもこめたかった。でも、この一文の和訳としてはむつかしかった:笑)でピーター自身も(美しく遠回しに)述べているのだが、本書は「当事者によるドキュメント」でありながら、ある種の客観的...批評的視線に貫かれている。それでも「評論」本にありがちな堅苦しさは皆無。愛と自責にあふれている。おそらく、だからこそ心から笑えるし、感動できる。

クッキーシーンではおなじみの中谷ななみさんとぼくが翻訳を担当、現編集部の面々も制作に関わっている。現在のクラブ・カルチャーの礎となったハシエンダや、ニュー・オーダーおよびジョイ・ディヴィジョン、そしてファクトリー・レコーズの「姿勢」に少しでも興味があるかたは、是非とも手にとってご一読いただきたい。絶対、損にはならないと思う。

ウェブ媒体としてのクッキーシーンでは、すでにピーター・フックのインタヴューをお届けしているが、ここでは長文の書評を掲載する。それを執筆した近藤くんも制作に関わってはいる。しかし(ほかの編集部員と同じく)あくまで純粋なボランティアとして編集作業の一段階に協力したのみ。最初はレヴューを希望した彼だが、なんとなく「レヴュー枠」に載せるのは変じゃない? ...みたいな感じで、この別枠を用意することにした。

まだ未読のかた、そしてすでに読んでくださったかたも、ひとつの参考になれば...と願いつつ...。では、どうぞ!



"幸福な犠牲者"は、音楽に合わせ踊りはじめる



2012_03_hacienda.jpg ハシエンダ、そしてそのハシエンダを震源地としたセカンド・サマー・オブ・ラブに、いったいどれだけの人が人生を狂わされたのか? 当時をリアルタイムで体験した人はもちろんのこと、その体験者から記憶を受け継ぎ、間接的に影響を受けた者も含めれば、とてつもない数の人が人生を狂わされたはず。

 僕の親父とお袋も、「あの素晴らしい、くそみたいな日々」に人生を狂わされた人間だ。おかげて親父とお袋は、いまでもクラブへ頻繁に通っている。お世辞にも若いとは言えないが、親父は今でもかわいい女の子を見つけると懲りずにナンパするし、お袋はお袋で、一晩中音楽に身を任せ、奇妙に体をくねらせている。そんな親父とお袋にクラブで出くわすこともあるが、ある日こんなことがあった。僕が友達数人とクラブへ出かけたときの話だ。連れの女の子が、「さっき面白い人にナンパされたんだけど、場所を移して飲むことになったから、先に帰るね」と僕に話しかけてきた。僕が「そう、わかった。楽しんで!」と答えると、その女の子が「あっ、あの人よあの人」と指差した先に居たのが、なにを隠そう親父だった。

 こういうことはけっこうあって、もちろんお袋も知っている。だが、よほど自分に自信があるのか、お袋は「最後に私のところへ戻ってくれば、それでいい」と言って、特に親父を咎めるようなことはしない。実際親父はお袋のところに必ず戻ってくるし、親父は自らの夜遊びをネタにお袋と談笑したりもする。会話の内容はともかく、傍から見れば、普通に仲の良い夫婦そのものだ。正直、僕もふたりについてはよくわからない部分がある。もしかしたら、僕も知らないふたりだけの価値観が共有されているのかもしれない。

 そんなふたりを見ていて想起するのは、やはりあの狂った時代なのだ。そう、「あの素晴らしい、くそみたいな日々」のことだ。


《この本には真実しか書かれていない。全部本当のことだ。嘘偽りは、まったくない》ピーター・フック(『ハシエンダ:マンチェスター・ムーヴメントの裏側』12頁より

 
「俺の記憶によれば。」という留保つきだが、ピーター・フック(以下フッキー)による著書『ハシエンダ マンチェスター・ムーヴメントの裏側』には、フッキーから見たハシエンダの裏側と、そのハシエンダに関わった人たちの物語が主観的に描かれている。だから実を言うと、ハシエンダの音楽的立ち位置や重要性については、ローラン・ガルニエ著『エレクトロ・ショック』のほうがわかりやすいと思う。とはいえ、本書でしかわからないこともある。例えばハシエンダの会計報告書が掲載されていたり、「クラブ運営をするときに、これだけはやっちゃいけない」と訳せる「How Not To Run A Club」が副題となっているように、本書は当時の運営状況が、フッキーの意外な文才とイギリス人らしいユーモアでもって語られている。それは読んでいて堅苦しいものではなく、マンチェスターに最高の遊び場を作ろうとした者たちによる青春物語と言っていい。個性的で欠点だらけの者が集まり、その後のユース・カルチャーに影響を与えつづける現象を生みだすまでのストーリー。だが、そうした美談だけで終わらせないのが本書の面白いところであり、フッキーらしいあけすけな人柄が反映されている気がする。というのも本書は、美しいとは言えないハシエンダの終わりまでを鮮明に告白しているからだ。それはフッキーの罪滅ぼしのようでもあり、「俺こんなことしたんだぜ!」みたいな自慢話のようでもあり、そして、フッキ―が当時の出来事と向きあえるようになった証でもある。

 本書でフッキーは、「過去に生きることが好きだよな」とバーナード・サムナー(ご存じニュー・オーダーのギタリストでありヴォーカル)にからかわれたことをネタにして、自らを過去に生きる人間だと認めているが、「それを忘れて先に進むことなんかできない、ってことなんだけど。」と語っているように、フッキーは過去を振りかえるメランコリーな人ではあっても、過去に囚われ身動きができなくなった懐古主義的ジジイではない。そういう人が淡々と、ときには感情にまかせ(特にロブ・グレットンについては、フッキーの本音と感情がこれでもかと滲みでている)言葉を綴った本書は、心に響くものがあるはずだ。そりゃあ手本になるような生き方をしている人間はほとんど出てこないけど、受け手が好きなように解釈すればいいと思う。本書に登場する人たちも少なからずそういうところがあるし、フッキーも怒らないと思う。


《アシッド・ハウス時代っていうのは、ハウスやテクノが聴けただけじゃなく(中略)ヒップホップのレコードや、ニュー・オーダー、それに、イタリアのプロダクション・チームが作ったユーロ・ディスコの曲、なんでも聴けた》デイヴ・ハスラム(『ハシエンダ:マンチェスター・ムーヴメントの裏側』282頁より)


 本書はフッキーの回顧録でありながら、ハシエンダが現在の音楽シーンに影響を与えていることがわかる本でもある。上記で引用したデイヴ・ハスラムの発言が示唆するように、《セカンド・サマー・オブ・ラブ=アシッド・ハウス》というイメージは間違いだ。アシッド・ハウスが猛威を振るったのは確かだが、ハシエンダから発信された音楽的メッセージは、"何でもあり"というアティチュードだった。この精神は"バレアリック"と呼ばれるものであり、いまでは"夕日が似合うチル・アウト・ミュージック"を指す言葉となってしまったが、現在の音楽シーンを見てみると、精神としてのバレアリックが受け継がれているように思える。アイタルを生みだしたUSインディーや、昨今のベース / ビート・ミュージック。こうした動きに共振するように、日本では《Diskotopia》や《Cuz Me Pain》といったレーベルが面白い動きを見せている。これらの動きに共通するのは、自らコミュニティーを作り、そこに集まった聴き手を歓迎する姿勢を保ちつつも、その箱庭的世界だけで満足せず、好奇心に忠実な貪欲さで様々な音楽を取り入れ再構築していることだ。グレイトフル・デッドのジェリー・ガルシアが残した名言「テクノロジーとは新たなドラッグである」に従えば、ネットというテクノロジーが"アティチュードとしてのバレアリック"復活をもたらし、感覚を拡張させたのかもしれないが、そのアティチュードのルーツを遡れば、ハシエンダにたどり着くことを本書は示している。


「最も多く愛する者は敗者である、そして苦しまねばならぬ」トーマス・マン


 フッキーは、ハシエンダをもっとも愛した人である。ハシエンダの冷たい柱にしがみついてまで深く関わり、その終焉を見届けた人物だ。僕は本書を「青春物語と言っていい」と先述したが、同時に本書は、"敗者の物語"とも言える。確かにビジネス的観点からは敗者だし、フッキー自身「俺たちもともと商売には向いてなかったんだろうね」と書いてるように、はなから負け戦だったのかもしれない。だか、それでも僕は、ハシエンダに貢献したすべての人に拍手を送りたい。借金、ドラッグ、暴力に苦しめられたかもしれないが、文字通り身を削ってあなたたちが続けたハシエンダは、親父とお袋を出会わせてくれた。つまり、ハシエンダがこの世に存在しなければ、僕もこの世に生まれることはなかった。まあ、幼い僕を祖父祖母に預け、度々"大農場"へ飛んで行ったことで寂しい思いをしたのも事実だが、そんな親父とお袋に影響され、いまでは僕も踊り狂う日々を過ごしている。

 本書の初校ゲラをチェックしているとき、僕の23年間が走馬灯のように蘇ってきたのをいまでも鮮明に覚えている。そして同時に、ハシエンダで踊っているような錯覚にも陥った。そこで踊っているのは親父とお袋、当然フッキーはべろんべろんに酔っていて、ライアン・ギグス("ジャックナイフ"の異名を持つ高速ドリブルで有名な、マンチェスター・ユナイテッド所属の選手。往年のスピードは失われたが、チャンスメイクと正確なクロスで、現在も相手チームの脅威であり続けている)までいる。周りを見渡すと、情事に耽るカップルも見受けられる。やけにリアルなオブジェだ。そんなオブジェを跨いでDJブースへ向かうと、DJが汗だくになりながらレコードをプレイしている。ハウス / ソウル / ヒップホップなどがプレイされるセットは、ハシエンダが一番エキサイティングで革新的だった頃の音だ。

 と、書いてはみたものの、もちろんこれは僕の体験に基づいた想像的フラッシュバックであり、初校ゲラの最後のページをチェックし終えたと同時に消え去ってしまった。そして、そのフラッシュバックが消え去ると、汗が飛び散るダンスフロアへ無性に行きたくなっていた。

 もしあなたが音楽に対し人一倍愛着があるならば、本書を読み終えたあと、僕と同じようにダンスフロアへ走りたくなるはずだ。愛すべき仲間がいる、"あなたのダンスフロア"へ。そのダンスフロアは「あの素晴らしい、くそみたいな日々」が砕け散った破片から生まれたものだ。本書もそんな破片のひとつであり、多くの"幸福な犠牲者"を生みだすだろう。そして"幸福な犠牲者"は、音楽に合わせ踊りはじめる。

 終わりは新たな始まり。パーティーは続く。

retweet