スピッツ『おるたな』(Universal)

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SPITZ.jpgのサムネール画像《僕にも出来る/僕だから出来る/君を困らせてよろこばす》
(「まもるさん」)

 亡きミシェル・フーコーの晩年の問題設定とは、「自己との関係」だった、68年の政治性を抜き取った穴に新しい空気を吹き込むという行為と近似してもくる。個人的な内奥に持つモラリティ(道徳性)を「生」の内部に介入してきてしまうというシステムを望まないという姿勢を取る、それは本流といったものがあったときの基礎留保案件としての傍流ともいえた。では、傍流を「オルタナティヴ」と訳すとき、実際のところ、それは<反>中央なのか、というと、この現在では疑念も残る。

 今回、スピッツのアルバムのタイトル名は『おるたな』と名付けられている。平仮名で、尚且つ略された形での字面としても不思議な四文字、傍流としての呈示。そこには、ベテラン・バンドになっても日和らない彼らのパンク・スピリットや世の中に迎合しない、アイドル、ダンス・グループ、企画ものに牛耳られたリジッドな現今の日本のいわゆる、汎的な音楽チャート・シーンに対する明確な直訴状のようにも思える。

 『おるたな』は、1999年『花鳥風月』、2004年『色色衣』に並ぶ、新曲やカバー、また、レア曲、そして、シングルでのA面ではない曲(両A面のときもあるが。)を集めたコンセプトの下に成り立つスペシャル・アルバムであり、具体的に内容に触れると、2002年の『Happy End Parade~Tribute To はっぴぃえんど』における「12月の雨の日」のカバーを起点に、シングルでも、アルバムに入っていない曲、新録としてのカバー曲の14曲で構成されているが、『花鳥風月』や『色色衣』とは何処となく温度が違うのは、新録としてのドラマ主題歌としても話題になった原田真二氏の「タイム・トラベル」、惜しくもボーカル・ギターの西山氏が急逝しながらも、今も愛されている叙情性に溢れたバンド初恋の嵐の「初恋に捧ぐ」、そして、花*花のヒット曲「さよなら、大好きな人」のカバーが含まれつつ、それらのアレンジメントが絶妙に『とげまる』以降の空気を踏まえたのか、柔和な真っ直ぐなポップネスで貫かれているというのも大きい。

 最新スタジオ・アルバム『とげまる』、そして、そのツアーでより具現化した捻くれ者、外れ者のバンドが自ら平仮名で"おるたな"とネーミングすることで、浮かび上がる「何か」とはおそらく、まだまだロック・ミュージックがクラスタリングされず、フラットに様々な人たちに届き、感性を歪ませるものであって欲しいという制度内改革にも近いものだと思う。最近、ファン向けの会報誌でお気に入りに、0.8秒と衝撃の名前が挙がっていたように、スピッツというバンドは「今」をいつも大事に見詰め、同時に「ポップ/オルタナティヴ」の境界線を常にロールオーバーする嗅覚に長けてきたところがある。だからこそ、大きなイヴェントを主催しても、アリーナ公演を決行しても、コンシスタンス(共立性)が共約されなかったりもする独自の「プロセス」を描く。そういう意味では、今回の作品ほど「プロセス」の共時リズムに沿ったものは無い気もしてくる。

 冒頭の「リコリス」は、04年のストリングスが入り、高揚感に溢れたシングル「正夢」に収められていた一音形成でサビが成り立つ拡がりのある曲で、そこに彼ららしい《となりの町まで/裏道を歩け/夕暮れにはまだあるから》という歌詞を草野氏の伸びやかな声で歌い上げる。裏道を歩くことで着く、となり町を目指していたバンドのブレイクは思えば、「誰も触れない二人だけの国」の造成だったとしたならば、相変わらず、その国名を今、リライトする可能余地を持ったままで、駆け抜けてもいるということだろうか。3曲目の07年のシングル「ルキンフォー」収録のザラザラした質感のギターロック「ラクガキ王国」辺りは、このアルバム・タイトルを象徴しているともいえるが、肝は04年のヒット曲の「スターゲイザー」とともに既発済ながら、尖った歌詞とサウンドで、"惑星のかけら"を掻き集めて、"鳥になって"何処かへ行ってしまいそうな儚さがある「三日月ロック その3」かもしれない。『三日月ロック』というアルバムがあったが、その題目に、更に「その3」がつくという1曲。切なさに裏打ちされたメロディーと最近の彼らに目立つ「大文字」が錯乱した、どことなくスキゾなムード。

《すぐに暖めて/冷やされて/三日月 夜は続く/泣き止んだ邪悪な心で/ただ君を想う》
(「三日月ロック その3」)

 泣き止んだ邪悪な心―この言葉に孕む意味の二重性はどうなのだろう、泣き止む邪悪な心で君を想うときに、その君は本当に想われているのか、捨てられてしまっているのか、明瞭にはならない。主体性の生産装置としてここでの「君を想う」は破綻している。ゆえに、君の名指しにも繋がる。名指しされた君は、いずれ、形を変える。歳を取るのではなく。そこから、鍵盤が撥ね、軽快なアレンジメントな心地好い原田真二氏の「タイム・トラベル」のカバーの小気味良さ、優美で『空の飛び方』前後の雰囲気をも彷彿とさせる07年のシングル「群青」に入っていた「夕焼け」でのたおやかさと、『おるたな』というよりは、フレキシブルな形でバリエーションに溢れた曲が続く。その中でもやはり、興味深いのは、初恋の嵐の「初恋に捧ぐ」のカバーだろうか、性急かつ非常にポップな展開、コーラス・ワークに再構築することで原曲が持っていた淡さを今に通じる健やかさに変換した、そこは彼らの長年のキャリアとポテンシャルとアンテナの鋭さを感じる。

 「整合性」という意味では、『花鳥風月』、『色色衣』よりは纏まりがある。はみ出しはしないが、それでも、歪な構造は保ったままで、スピッツという反骨精神が明瞭に示された、09年の「君は太陽」収録の「オケラ」で終わるというのは彼ららしいところではあるのは流石だと感じる。

《もっと自由になって蛾になってオケラになって/君が出そうなカード/めくり続けてる/しょっぱいスープ飲んで/ぐっと飲んで涙を飲んで/開拓前の原野/ひとりで身構えている》
(「オケラ」)

 輝くほどに不細工なモグラのままでいたかった彼らのベースは変わらない。

 「変わった」のは止むを得なくも、世の中サイドなのかもしれない。参照点として、『おるたな』は各個体の孤独である可能性を想像する不可能性までの裏道を用意する。そこで、人が孤独になるということは個体として規定された上で、権利と所有における自律源泉と見なされるときのことを指すとしたら、そのときを形而上学的に「真ん中」から許す、「プロセス」が見える。真ん中から是認するプロセスこそが、オルタナティヴとしたら、『おるたな』とはあらゆる即時的な決定や性急な判断を遅らせる力を持った作品になっている気がする。

 スピッツは、まだ開拓前の原野で身構えて、泣き止んだ邪悪な心で「君」を想う。悲しい程に綺麗なまっさらな夕焼けを待つべく。終わりなんて決める必要はない。

《君のそばにいたい/このままずっと/願うのはそれだけ/むずかしいかな/終わりは決めてない/汚れてもいい/包みこまれていく/悲しい程にキレイな夕焼け》
「夕焼け」

 

(松浦達)

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