SEIHO『Mercury』(Day Tripper)

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SEIHO.jpg 音楽を聴くにあたって、孤独感はつきものだ。スピーカー、またはヘッドフォン、形はどうあれ、音楽と向きあうときは自分しか存在しない。ライブのように、目の前に演奏者が居てもそう。たいして変わらない。演奏者はともかく、そこでも聴き手は、音楽と向きあうことになるからだ。

 それでも想像力を駆使し、その音楽に少しでも近づこうとする者もいる。なにを隠そう筆者がそのひとりだ。こうして言葉を紡いでいるのも、対象となる音楽に少しでも近づきたいからだ。しかし悲しいかな、頑張ってその音楽の実態を掴んでも、手からするりと抜けおちてしまう。こうした"断絶"は、ある種の呪縛みたいなもので、送り手がどんなにオープンな音楽を鳴らしても解消されないものである・・・はずだった。

 去年スタートした、関西を拠点に活動するレーベル《Day Tripper Records》の第一弾アルバム『Mercury』。"水星"を意味するタイトルがつけられた本作には、"音楽を聴く"にあたって遭遇するはずの"断絶"がない。LA音楽シーンに通じるビートやグルーヴは"ポスト・ダブステップ"なんて言われるかもしれないけど、そんな便宜的フレーズでは捉えられない"ナニカ"が、確実に存在する。初期LFOに温もりを与えたような音、トリップホップと呼ばれた音楽を想起させるプロダクション、そして、もっとも重要な要素のひとつと言えるジャズ。様々なジャンルを横断し接合する音楽性は、まさに"今"ならではだろう・・・といった文は腐るほど見てきたし、そういう音楽はもはや当たりまえになりつつある。だが、こうした状況でも"その他大勢"に収まらない強烈な存在感を、『Mercury』は放っている。

 この存在感の正体が知りたくて、筆者は本作を何度もリピートしたが、ある事実に気づき、ひとつの結論に達した。それは、いろんな音楽を取りいれる過程で生じる"編集的意識"が皆無であり、このことが、本作の強烈な存在感に繋がっているのかもしれないと。何かを捨て、何かを得るといった摂理が本作にはない。この"編集的意識"は"暗黙知"と言いかえることも可能だが、その"暗黙知"がない本作は、文字通りすべての音を歓迎している。

 冒頭の話に戻るが、"音楽を聴く"という行為は変わりつつあると思う。例えば、ユーストリームでライブを観ているとき。基本的に画面と向きあう聴き手はひとりだし、その状況自体は孤独だ。しかし、表示される視聴者数やコメントによって、心は孤独ではなくなっている。もちろんそこで感じる繋がりは幻想で、目に見えないものではある。だが、その幻想に親近感を抱く聴き手が現れはじめていると思う。強いて言うなら、"ソフトな繋がり"と呼べるものだ。

 そして本作は、"ソフトな繋がり"が音楽として表現されている。そういう意味で本作は、"今"でもあり"未来"でもある。

 

(近藤真弥)

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